須藤眞志
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須藤 眞志(すどう しんじ、1939年8月6日 - )は、日本の歴史学者。京都産業大学名誉教授。専門は日米関係史。
経歴
群馬県高崎市生まれ。群馬県立高崎高等学校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程を修了し、1987年「日米開戦外交の研究 日米交渉の発端からハル・ノートまで」で、法学博士の学位を取得。
著書
単著
- 『日米開戦外交の研究――日米交渉の発端からハル・ノートまで』(慶應通信、1986年)
- 『ハル・ノートを書いた男――日米開戦外交と「雪」作戦』(文春新書、1999年)
- 『真珠湾「奇襲」論争――陰謀論・通告遅延・開戦外交』(講談社選書メチエ、2004年)
共著
編著
- 『現代史――戦後世界の潮流』(学陽書房、1988年)
- 『戦後世界の潮流』(学陽書房、1991年)
- 『20世紀現代史』(一藝社、1999年)
共編著
- (花井等)『新比較外交政策論』(学陽書房, 1992年)
脚注
外部リンク
須藤眞志
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須藤眞志は無線封止は守られていたとする。出発した機動部隊が途中で見つかれば全ては水泡に帰すから、天候上の理由から非常に危険な北方ルートを決断せねばならなかった。大遠征で航海中、給油をせねばならぬが、海上が荒れていれば不可能である。海軍では軍令部が中心となって、連合艦隊、第一航空艦隊との間で通信計画が作成された。「無線封止」の状態では、一切の電波発信が禁止され、最高指揮官が命じた場合のみに電波を発信できる。「60回も命令違反をした」というスティネットの主張について、監訳者の妹尾作太男は「機動部隊は11月末から12月初めにかけ、最大風速35Mの台風にやられ、散り散りになった、艦隊を呼び集めるため、発光信号は頼りにならず、止む無く『禁断の電鍵』を叩いた」と証言している(『諸君!』2002年6月号)[要文献特定詳細情報]}。ところが逆の証言が多く、「北太平洋が思ったより穏やかで海霧が視程を低下してくれて助かり、洋上補給もうまくいった」と源田実は述べている(『真珠湾作戦回顧録』)[要文献特定詳細情報]。 当時の海軍のモラルについて。無線封止が本当に守られていないならば南雲中将は愚将であり、日本海軍軍人のモラルとは一体なんだったのか問わざるを得ないが、かくのごとく、無線封止は、命をかけてまで守るほどの重要なことであり、命令違反ではないにせよ、部下が命をかけて守ろうとしていた無線封止を上官である南雲や長谷川喜一(「赤城」艦長)が簡単に破ったとは到底信じられない。スティネットが発見したとしている傍受電波の記録の信憑性であるが、何ひとつとして公開されておらず、米公文書館に所蔵されているとのことであるが、スティネット以外、誰も目にしていない。 なお、伊号第二十三潜水艦が一時行方不明になり、その捜索のため一度だけ電波を出したと、淵田美津雄が述べたという(半藤一利『真珠湾の日』)[要文献特定詳細情報]。
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