ハル・ノートにおける満州国について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:24 UTC 版)
「ハル・ノート」の記事における「ハル・ノートにおける満州国について」の解説
ハル・ノートにおける「支那(中国)」には満州国が含まれるかどうかがしばしば問題になる(ハル・ノートで言うところの「中国」には満州は含まれていないとする説がアメリカ側の研究者から出ている)。しかし、そもそもハル国務長官にとって満州問題は優先順位が低く、日米交渉の争点にすらなっていない。 ハルも野村大使も「中国」という言葉を満州を含む意味には使っておらず、国務省極東部内の認識も同様で、それが現場の常識であった。ハル・ノートの原案であるモーゲンソー案においても満州は中国とは別の地域を意味しており、11月22日案・11月24日案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった(ただし、11月25日案(ハル・ノート)では「(満州を除く)」という挿入句が外された。24日から25日にかけての数時間の間に、このような修正がなされた理由は現在でも不明である)。 一方、日本政府の解釈であるが、12月1日の御前会議での東條首相及び東郷外相の説明では、ハル・ノートの解釈について「汪兆銘政権の否認」を挙げていても満州国の否認は挙げていないこと、そして東郷が米国案を受諾すれば「其の結果満州国の地位も必然動揺を来すに至るべく」と述べていることから、ハル・ノートにおける「支那(中国)」の中に満州国は含まれていないとの前提に立っていたことが認められる。御前会議において枢密院議長の原嘉道がこの点について質問しているので、以下に原と東郷のやりとりを引用する。 原 「特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居られるかを伺い度い」 東郷 「26日の会談(ハルノート提示時の野村・来栖-ハル会談)では唯今の御質問事項には触れて居りませぬ。然し、支那に満州国を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案(日米諒解案)の中には満州国を承認するといふことがありますので、支那には之を含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認め汪兆銘政権を潰すといふ様に進んで来たことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思ひます」 須藤眞志は、東郷が日米諒解案を米提案だと思い込んでいるのは信じがたいものがあるとしつつ、この答弁は論理的にも意味不明であり、質問に対して何の回答にもなっていないと評して、この問題について何の議論も行っていない無関心さを指摘している。そして、東條の東京裁判での宣誓口供書(ハル・ノートの難問として「支那全土(満州を含む)からの無条件撤兵」「満州政府否認」等を挙げている)、田中新一作戦部長の回想(ハル・ノートを「全支(満州を含む)からの撤兵」「満洲国政府の否認」と解釈)、佐藤賢了軍務課長の回想(「満州を含む中国からの全面撤退」と解釈)といった軍部関係者の証言から「とても『(支那の中に満州国は)含まれないとの前提に立っていた』とは思われない」としている。 しかし、安井淳によると、須藤の依拠した軍部関係者の証言は戦後の回想という問題点があり、戦前(あるいは開戦直後)の一次史料と矛盾する。事実、外務省のハル・ノート翻訳文や御前会議での東郷の説明、在米武官からの報告、東條首相のラジオ放送などからは「満州を含む」との文言は確認できない。原の質問から当時、「満州を含む」との流言があったことは間違いないが、責任ある地位にいた者の中で「満州を含む」と解釈していたとは認められない。 つまり、ハル・ノートで米国から満州撤兵の要求もあったと公然と言われるようになったのは戦後のことであり、その起源を辿ると、東京裁判における被告側(日本側)の主張―満州を含む中国からの撤兵という苛酷な要求により日本は開戦を強いられたという「ハル・ノート開戦説」―に行き着く。
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