ハル・ノートは開戦を誘発する目的だったか
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「真珠湾攻撃陰謀説」の記事における「ハル・ノートは開戦を誘発する目的だったか」の解説
詳細は「ハル・ノート#解釈と評価」を参照 日米交渉の最終段階にあたる1941年11月26日午後(アメリカ東部標準時)に、アメリカの国務長官コーデル・ハルが日本側全権大使(野村吉三郎・来栖三郎)に手交したハル・ノートには、妥結条件として中国および仏印からの撤兵、日独伊三国同盟の実質的廃棄、汪兆銘政権の否認が含まれていた。ハル・ノートを見た外務大臣の東郷茂徳は「目もくらむような衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)[要文献特定詳細情報]と回顧しており、当時の日本にとっては受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表した。ハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。一方、手交日にはすでに南雲忠一中将率いる第一航空艦隊は択捉島のヒトカップ湾を出航していた(ただし攻撃か引き返すかの最終命令は12月2日まで出されていない)。 この時期、アメリカが日本の外交暗号(パープル暗号)を解読して得られた情報(「マジック」)はルーズベルト以下の政府および軍の要人に伝えられていた。日本が対米戦争を本格的に準備している(11月22日の外務省から駐米大使館への訓電で日米交渉の期限を11月29日に変更し、「この期限は絶対に変更できない。それから後の事態は自動的に進展する」とした)ことを知ったルーズベルトは11月25日に最高軍事会議を開き、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「敵が攻撃してくるとわかっている場合に、手をこまねいて待っているというのも、あまり賢明なやり方じゃない」と述べたのに対し、「たしかに、日本軍に最初の一発を撃たせるということには危険がある。しかし、アメリカ国民の全幅の支持を得るには、日本軍に先に攻撃させて、誰が考えてもどっちが侵略者であるか、一遍の疑念もなく解らせるようにした方がいいのではないか」と返答した[要文献特定詳細情報]。 スティムソンは11月26日の朝に、30-50隻の日本の輸送船団が台湾南方海上を南進しているとルーズベルトに電話で報告し、その際にルーズベルトが「ショックを受け、日本側のさらなる不誠実の証拠と受け止めた」「これで事態は一変した」と話したと記している[要文献特定詳細情報]。スティムソンはこれがルーズベルトを日本に対する「最後通牒」を出す要因になった推測した[要文献特定詳細情報]。これに対して太平洋艦隊の情報将校だったエドウィン・レートンは、日本軍が馬公(澎湖諸島)や三亜(海南島)に集結していることはこの時点で知られており、この程度の情報で態度を変えるのはおかしいと指摘した上で、日本の攻撃意図を伝える秘密情報があったのではないかと推測した[要文献特定詳細情報]。今野勉は、11月27日付でマニラのイギリス秘密情報部から打たれた「12月1日に日本軍がクラ地峡を攻撃する可能性あり」という極秘電報(時差の関係で、ワシントンには11月26日に届いたと推察される)の存在を指摘している[要文献特定詳細情報]。
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