ヒトカップ湾とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヒトカップ湾の意味・解説 

単冠湾

(ヒトカップ湾 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 13:35 UTC 版)

単冠湾の位置(濃紺の部分)
単冠湾の景色

単冠湾(ひとかっぷわん、ロシア語: Касатка、カサトカ湾)は、択捉島中部に位置する湾である。

概要

北緯44度57分0秒 東経147度41分0秒 / 北緯44.95000度 東経147.68333度 / 44.95000; 147.68333座標: 北緯44度57分0秒 東経147度41分0秒 / 北緯44.95000度 東経147.68333度 / 44.95000; 147.68333に位置する。太平洋に面し、南東側に開けている。湾口の幅は約10km。冬季でも流氷が接岸しない天然の良港である。

和名は、アイヌ語で「ヤマブドウの皮」を意味するhat(ヤマブドウ)・kap(皮)に由来する。ロシア名は、カサトカ湾(Зал. Касатка[1]、カサートカ湾)と呼ばれる。これは、「シャチの湾」の意[2]である。

1941年11月23日大日本帝国海軍第一航空艦隊機動部隊)が集結し、同26日に真珠湾攻撃のため艦隊がハワイへ向け出港した場所である。

漁船集団遭難

1970年3月16日、発達した低気圧を避けるために日本の底引網漁船19隻が次々と単冠湾に避難。翌17日には湾内で9隻が風に吹き寄せられた流氷に閉じ込められ船体などが破損、うち4隻は船体放棄して、乗組員はソ連側に救助される、または択捉島に上陸を余儀なくされた[3]が、この過程で30人が死亡または行方不明となった[4]。生存した乗組員の大半は同年3月23日に巡視船宗谷で帰還[5]。収容された遺体18人分は、同年4月にソ連側から返還されている[6]

脚注

  1. ^ 『Внешняя политика Японии(和訳:日本の外交政策) 1939年9月~1941年12月』
  2. ^ 大泰司紀之、本間浩昭『知床・北方四島 カラー版 流氷が育む自然遺産』岩波書店、2008年、89頁。ISBN 978-4-00-431135-5 
  3. ^ 流氷、漁船閉じ込める 緊急入域中野9隻『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月13日朝刊、12版、15面
  4. ^ 涙流して抱き合う岸壁 択捉の集団遭難漁船員帰る『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月21日夕刊 3版 11面
  5. ^ 涙流して抱き合う岸壁 択捉の集団遭難漁船員帰る『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月23日夕刊 3版 11面
  6. ^ 「18遺体帰る 択捉沖遭難」『朝日新聞』昭和45年(1970年)4月13日朝刊、12版、15面

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヒトカップ湾」の関連用語

ヒトカップ湾のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヒトカップ湾のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの単冠湾 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS