歴史学者の意見
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中村政則は以下のように記している。 侵略戦争を否定する保守派・民族主義者のなかには「侵略」を「進出」に書き替えさせた事例は一つもないと主張して、文部省の検定を擁護する人々がいるが、帝国書院の『世界史』の教科書二冊は、「侵略」を「進出」と書き替えさせられている。これは氷山の一角で、検定過程で語句の修正・削除を求められた事例は枚挙にいとまがない。 藤原彰は1994年8月に出版された著書の中でも「文部省の歴史教科書の検定が『侵略』を『進出』に直させた」と書いている。 柴垣和夫は同シリーズの別の巻で、「私が本書を執筆している1982年という年は、戦前の日本の朝鮮にたいする植民地支配や中国侵略に関する検定教科書の記述をめぐって、韓国と中国からきびしい批判が噴出した年であるが、その過程で、『侵略』を『進出』に書きかえさせる検定が、まさにこの年からはじまったことが明らかにされている」と書いている。 森武麿は一般向け通史『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社において、以下のように記している 1980年代に入ると、このような日本の態度にアジア諸国がきびしい批判の目を向けるようになった。そのひとつは1982年の教科書問題である。文部省検定によって『侵略』を『進出』に書き換えさせたことに対して、アジア諸国の激しい抗議の声が巻き起こった。日本は過去の戦争への責任をまったく忘れているのではないかという中国、韓国、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどの批判は、教科書問題をとおして国際問題に発展した。このため文部省はしぶしぶ検定の改善を指示せざるをえなかった。 中村隆英は1993年出版の『昭和史』において、「日本の韓国と中国への『侵略』という表現を、教科書検定のさい『進出』と直させたという報道は、いちどに韓国と中国を硬化させ抗議がつづいた」と書いている。 小島晋治と丸山松幸は「1982年7月の日本の文部省の『教科書検定問題』(中国『侵略』という表現を改めさせたこと)に対する中国政府の公式抗議」と記している。 笠原十九司は「新聞各紙は、高校社会科教科書の文部省検定結果を報道し、多くの教科書で侵略の記述が薄められ、『侵略』という記述に検定意見がつき、『進出』『侵入』『侵攻』などという記述に改めさせられた」と記している。 倉沢愛子は2002年7月に出版された著書において「1982年に、文部省の検定で、日本の高等学校の教科書の記述をアジアへの『侵略』から『進出』という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異議を唱えたのであった」と書いている。 吉田裕は「1982年6月25日、文部省は翌年4月から使用される高校用教科書の検定結果を公表し、翌日の新聞各紙はその内容を詳しく報道した。ところが、この報道によって、文部省が日本の対外侵略を『侵入』や『進出』に、朝鮮の三・一独立運動を『暴動』などと書き直させていた事実が明らかになると、アジア諸国は敏感に反応し、中国や韓国では厳しい対日批判がまきおこる。教科書検定の国際問題化である。この時の初期の報道の一部に「誤報」があったのは事実だが、「侵略」という表現を排除する検定が一貫して行われてきたのは確かである」と記している。 秦郁彦は、歴史教科書問題について和田春樹が「韓国と中国の批判が、わが国の反動派、右派に痛撃を与えてくれた」と1983年3月に発言したとし、「日本人としての『国益意識』がほとんど見られない」「こんな心がけで、運動を広げられては我が国益は害される一方と思う」と論評している。
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