政戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)
山本は、大艦巨砲主義が趨勢の中でいち早く航空主兵論に着目したこと、対英米強硬論や日独伊三国軍事同盟に対して反対したことなど、政治家的資質もある先見性のある人物として評価される。 山本の太平洋戦争における戦略は、攻勢作戦によって大戦果をあげて相手の戦意をくじき、有利な条件で早期講和を締結するというものだった。機動部隊による艦隊決戦で勝利すれば、講和の機会が訪れる以上の考えはなかったという指摘もある。山本は桑原虎雄少将に対し、日本の大幅譲歩による講和への希望を語ったが、「結局、斬り死にするほかなかろう」と政治への失望も語っている。 山本は航空主兵論者であった。ロンドン海軍軍縮会議で米:英:日の海軍力が5:5:3比に決定すると、山本は航空兵器で差を埋めることを主張し、航空技術本部長として研究を重ねた。山本は「頭の固い鉄砲屋の考えを変えるのには、航空が実績をあげてみせるほか方法はないから、諸君は更に一層訓練や研究に努めるべきだ」と航空主兵論を励ます一方、横須賀航空隊で「金持ちの家の床の間には立派な置物がある。そのものには実用的の価値はないが、これあるが故に金持ちとして無形的な種々の利益を受けていることが多い。戦艦は、なるほど実用的価値は低下してきたが、まだ 世界的には戦艦主兵の思想が強く、国際的には海軍力の象徴として大きな影響力がある。だから諸君は、戦艦を床の間の置物だと考え、あまり廃止廃止と主張するな」と訓示もした。 山本は、従来から航空主兵の思想であり、1934年(昭和9年)には、既に戦艦の実用的価値は少なくなったと述べていた。同年4月末の連合艦隊の戦訓研究会において、中央からの出席者を前にして、「軍備は重点主義に徹底して、これだけは敗けぬという備えをなす要がある。これがためには、わが海軍航空の戚力が敵を圧倒することが絶対に必要である」旨を述べていた。軍令部は開戦後の航空部隊の活躍、資材や工業力の見通しから改訂を研究し、また連合艦隊の意見を求めて、1942年(昭和17年)4月下旬には一案を作った。これは当時の航空関係生産力拡大可能の見通しから決めたものであったが、連合艦隊側は、なお航空に重点を集中すべきだとして、山本は、思い切った重点主義を採り、艦艇戦備を減らしても航空生産力を急増するよう、工業力の配分を大きく改めるべきだと口にしていた。山本の航空主兵論は戦艦建艦競争となった場合に圧倒的工業力を持つ米国に対抗できないという事情も加味されているという意見もある。 山本は、早期に航空戦力の有効性に気が付いて重視し、航空戦備を推進した先見性が評価される一方で、南方作戦後は作戦の失敗が続き、航空戦力を消耗させており、航空戦力を本当に理解できていたのかなど、山本の戦略を疑問視する意見もある。淵田美津雄大佐は、山本が戦艦「大和」を安全な戦線後方に温存し遊兵化したこと、「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員をさらに消耗させたことを批判して山本五十六は凡将だったと語っている。中島親孝中佐は、日本戦艦として比較的高速の「大和」と金剛型戦艦を先頭に立たせれば戦艦の価値を発揮できたとし「空母機動部隊の価値も、米軍のそれを見せつけられるまで、ほんとうには悟れなかったのではあるまいか」と語っている。アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは、山本に関し、米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮ではなく、真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えており、この時間が最大の助けになったと語っている。
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