政所・大江広元と二階堂行政の子孫とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 政所・大江広元と二階堂行政の子孫の意味・解説 

政所・大江広元と二階堂行政の子孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:59 UTC 版)

吾妻鏡」の記事における「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の解説

大江広元筆録からと思われるものには、同じ文章分割した思われる承元3年1209年10月15日条と建保2年1214年5月7日条があり、二階堂行政では文治2年1186年10月3日条などがある。顕彰した部分確かに見られる例え大江広元では既に見てきた守護地頭献策などである。ただし既に「「守護地頭」の設置」で見てきたとおり、これは大江広元顕彰ではあっても編纂者の手による曲筆とは言い切れない。従って顕彰記事存在だけから広元の子孫の編纂への関与をいうことは出来ないが、これも先に触れたとおり北条泰時大江広元時代記録広元の孫の長井泰秀送ったという記事があり、長井氏伝えられたその記録『吾妻鏡』編纂利用されであろうことは大正時代の頃から和田英松八代国治らによって指摘されている。 二階堂行政の子孫については、その子二階堂行光顕彰記事元久元年1204年9月15日条があり、行光白河院古事語り相州殊に御感」という。そのとき行光語った古事は『十訓抄』1の24話にあるものと同じであることを五味文彦指摘した記事そのもの後付創作である可能性はある。ただし五味認め通り十訓抄』の編者同様に行光もその古事知っていたのかも知れず断定出来ない。また『金槐和歌集』から収録した思われるものに八代国治指摘した建保元年1213年12月19日条から翌20日条がある。二階堂行光三代将軍源実朝の和歌やりとりで、将軍実朝が「再三御感に及ぶ」という下りである。しかしその記事『吾妻鏡』加えたことに行光顕彰意図指摘出来ても、事実相違する曲筆という訳ではない。三善康信場合比べれば非常におとなしいものであるとはいえ二階堂氏『吾妻鏡』記事ベース想定される筆録著者多数現れることと合わせて考えると、その編纂への関与濃厚推測される

※この「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の解説は、「吾妻鏡」の解説の一部です。
「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」を含む「吾妻鏡」の記事については、「吾妻鏡」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の関連用語

1
6% |||||

政所・大江広元と二階堂行政の子孫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



政所・大江広元と二階堂行政の子孫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吾妻鏡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS