政情不安の再来(1919年 - 1924年)
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「ホンジュラスの歴史」の記事における「政情不安の再来(1919年 - 1924年)」の解説
1919年、ベルトランド大統領が後任を選出するための公開な選挙を拒否することが明らかになった。この態度は米国に反対され、ホンジュラス国内でもほとんど支持されなかった。テグシガルパ知事で軍人のラファエル・ロペス・グティエレス(英語版)将軍はホンジュラス自由党(英語版)の反ベルトランド勢力を組織、さらにグアテマラの自由党(英語版)政府、ニカラグアの保守党(英語版)政府の支持まで得た。一方、ベルトランドはエルサルバドルの支持を求めた。 紛争を回避しようとする米国政府は逡巡したのち仲介を申し出、ベルトランドには仲介を拒否した場合は直接介入も辞さないと脅した。ベルトランドはすぐに辞任して出国した。米国駐ホンジュラス特命全権公使(英語版)のトマス・サンボラ・ジョーンズ(ドイツ語版)は自由選挙を公約したフランシスコ・ボグラン(英語版)率いる臨時政府の樹立を援助した。今や軍部を支配したロペス・グティエレスは次期大統領になることを決意していると表明した。長い交渉の後に不正がはびこった選挙が行われ(1919年ホンジュラス総選挙(英語版))、ロペス・グティエレスは易々と勝利して1920年に大統領に就任した。 ボグランは短い任期ではあったが、米国からの財政顧問を受け入れると決断した。それに従い、米国国務省のアーサー・ニコルス・ヤング(Arthur Nichols Young)が派遣され、1920年8月から1921年8月までホンジュラスで財政顧問を務めた。ヤングは大量のデータを整理して、ニューヨークの警察官を雇ってホンジュラス警察を再編成させるなど多くの助言を行った。ヤングの調査はホンジュラスが大規模な財政改革を必要としていることを明らかにした。というのも、すでに不安定であった財政状況が革命活動の再開で大幅に悪化していたからだった。 例えば、ホンジュラス軍の1919年の支出は予算の倍以上であり、ホンジュラス政府の全支出の57%を占めた。ヤングは軍事支出の削減を助言したがロペス・グティエレス政府に受け入れられず、ホンジュラスの財政状況は問題であり続けた。政府に対する恒常な反乱と中米紛争の再開で状態がさらに悪化、ホンジュラス政府は1919年から1924年までの軍事活動で支出が予算を720万米ドルも超えた。
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