政情不安と停戦 (1974–75)
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「政情不安と停戦 (1974–75)」の解説
1974年に至るまでFRELIMOの支配地域は根拠地に近い北部や内陸部に限られており、軍事的にはポルトガル軍の優勢が続いていたが、10年続いた植民地戦争はポルトガル本国の政変により突然の終幕が訪れた。 ポルトガルの植民地戦争によってポルトガルの軍事費は国家予算の44パーセントを占めるに至っていた。 この状況はポルトガル自身の社会インフラ投資に対して発行される国債に明白な影響を及ぼした。 また、ポルトガルの状況はヨーロッパ各国に不安を与えた。しかしながら実際にはポルトガルのGDPは植民地戦争の期間中(1961年 - 1974年)、6%に届く成長を見せていた。ポルトガルは1974年以降このGDP成長率を達成したことは一度もない。またアフリカのポルトガル植民地のGDP成長も広く注目に足るものであり、紛争中の高い成長記録を見せた時期にはインフラの建設が行われていた。植民地戦争に対する多くのポルトガル国民の不支持は、大学の支援を受けた「Cadernos Circunstância(状況ノート)」・「Cadernos Necessários(必須ノート)」・「Tempo e Modo(時期と手法)」・「Polémica(激論)」等の雑誌の影響があり、これらの論調はポルトガルの植民地問題に対して政治的解決を志向していた。 1960年代後半、ポルトガル本国では非合法政党だったポルトガル共産党(ポルトガル語: Partido Comunista Português, PCP)のに創設された一部門、「武装革命行動」部門 ('Armed Revolutionary Action' branch) および左翼組織である革命旅団 (Revolutionary Brigades, BR) が植民地戦争に反対するための行動を開始した。主な行動は複数分野にわたるサボタージュと軍事目標の爆撃だった。例として1971年3月8日に複数のヘリコプターを用いて行われたタンコス (Tancos) 空軍基地に対する爆撃や、同年10月のオエイラス (Oeiras) に所在するNATO司令部に対する攻撃が挙げられる。植民地戦争に直接影響する役割を演じた例としてはポルトガルの兵員輸送船・「ニアサ」に対する攻撃が挙げられる。「ニアサ」はモザンビークの州のひとつであるニアサ州にちなんで命名された船であり、攻撃を受けた際は、リスボン港からポルトガル領ギニアで展開する兵員を輸送する準備をしていた。また、1974年のカーネーション革命の際には10万人の徴兵忌避者が記録されている。 ポルトガルの政情不安は増大し、1974年4月25日に至って左派クーデターであるカーネーション革命が起こり、マルセロ・カエターノ首相・アメリコ・トマス大統領率いるポルトガル政府を打倒した。 ポルトガル臨時政府の首班にはアントニオ・デ・スピノラ将軍が就き、植民地戦争の停戦を宣言した。スピノラは当初連邦制による植民地の維持を模索したが、結局7月24日には1933年共和国憲法第1条を破棄し、海外領土の独立を承認した。またリスボン政府の政権交代により、多くの現地の将兵が戦闘の継続を拒否し、しばしば哨戒行為を行わず兵舎に立て籠っていた。 ポルトガルとの交渉は選挙なしでFRELIMOが政権を掌握することに備え、9月7日のルサカ合意(英語版)締結によって完了した。また、数万にも及ぶポルトガル系市民がモザンビークを離れた。この合意において1975年6月におけるモザンビークの完全独立と、それ以前の政治体制はFRELIMOが任命する首相の下に組織される閣僚会議と、ポルトガル政府・FRELIMO同数の成員からなる休戦監視委員会を設置し、これによる旨定められた。ルサカ合意の締結同日に、首都ロレンソマルケスでポルトガル人植民者の暴動があり、放送局を占拠して白人支配によるモザンビーク共和国独立が宣言されたが、介入が期待された南アフリカ共和国が呼応しなかったため、すぐに鎮圧された。ルサカ合意の後、正式な独立日は1975年6月25日、FRELIMOの結成13周年の記念日に設定された。
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