政府閣僚として
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「ウラジーミル・スホムリノフ」の記事における「政府閣僚として」の解説
1909年3月11日、軍事大臣に就任。1911年12月6日からは国家評議会議員となる。スホムリノフは日露戦争敗戦後の陸軍の再建と改革に尽力し、その甲斐あって皇帝ニコライ2世の信任を得たが、そのための予算を巡って首相兼蔵相だったウラジーミル・ココツェフとの間に深刻な対立が生まれた。スホムリノフが皇帝の支持を得ていたのに対し、ココフツェフの主な支持者はアレクサンドル・グチコフら有力国会議員であった。またニコライ・ニコラエヴィチ大公、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公、アレクセイ・ポリワノフ将軍とも仲も悪かった。政敵達は私生活に至るまでスホムリノフを攻撃し、その引きずり下ろしを図った。グチコフは後に第一次世界大戦中においてもスホムリノフへの攻撃をやめず、後述するミャソエドフ大佐のスパイ事件ではスホムリノフへの責任追及の先頭に立った。 第一次世界大戦勃発時にスホムリノフは予定より24時間早く総動員を整え、早急に同盟国フランスの救援にあたった。しかし東プロイセンに進撃したロシア軍はタンネンベルクの戦いで大敗、その後も戦況は好転せず翌年春までに砲弾不足等、軍の補給問題にも問題が相次いだことで、政敵らの攻撃は一気に苛烈さを増した。止めとなったのはミャソエドフ大佐ら八人のロシア軍人が、ドイツのスパイとしてスホムリノフの官舎を中心に活動していたという売国奴事件である。グチコフらはこぞってスホムリノフを弾劾し、その失脚を謀った。当時の軍最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公も弾劾に参加、抗しきれなくなったニコライ2世は6月13日にスホムリノフを大臣から解任した。
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