FRELIMOの結成
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「FRELIMOの結成」の解説
1951年、ポルトガルは国連が漸次解放するように勧告した「植民地」にあたらないと主張し、かつ自国の植民地がより大きな自治権を持つことを世界に示すためにモザンビークを海外領として指定した。名称はモザンビーク海外州(ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ(英語版)、ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)とされたが、名ばかりの変更であり、ポルトガルは依然として海外州に対する強大な支配力を維持していた。アフリカ先住民に対する不適切な扱いが引き続き行われる中、第二次世界大戦後年々アフリカ国家の独立が続くのに従い、モザンビークの民族主義勢力もその力を強めていった。 ポルトガル政府はモザンビークの農民に対して稲や綿花を輸出用作物として育てることを強制したが、農民が受け取れる成果は微々たるものだった。結果、1960年までに25万人以上の労働者がダイヤモンド鉱山や金鉱山での労働に携わることになった。 1950年当時、およそ5,733,000人のモザンビーク人のうち、ポルトガル植民地政府によって選挙権が与えられていた者は4,353人に過ぎなかった。 ポルトガル人とモザンビーク先住民の間に深い溝があることは、黒人と白人との混血(ムラート)が少ないことからも窺い知ることができる。1960年の人口調査によれば、800万人以上いたモザンビークの人口のうち、混血の人口は僅か31,465人に留まっていた。 モザンビークでは少数の裕福なポルトガル人と大多数を占める地方のアフリカ先住民との間に社会生活上の大きな隔たりが存在した。多くの先住民は読み書きが出来ず、地方の伝統的な生活習慣に従って生活しており、熟練労働者としての雇用機会や行政機構における重要な役割を与えられることはほとんどなかった。このため先住民は都市の近代的な生活に触れることはほとんどなかった。また、先住民にとっての自らの文化と伝統が外来のポルトガル文化によって蹂躙される状況が随所にみられた。ポルトガルの政治的方針に反対したり、独立を提言する住民は多くの場合領外に追放された。政治的知識層の近隣諸国への大規模な追放は、結果として急進的なモザンビーク人のモザンビークに対する政治的不安定化に繋がる活動や煽動を引き起こした。 1962年6月25日、マルクス・レーニン主義解放組織であるモザンビーク解放戦線(FRELIMO、 ポルトガル語: Frente de Libertação de Moçambique)が後にウジャマー社会主義を標榜することになる隣国タンザニア最大の都市であるダルエスサラームで結成された。この大会中に、モザンビーク政界から追放された集団である独立モザンビーク・アフリカ連合(ポルトガル語: União Nacional Africana para Moçambique Independente, UNAMI)、モザンビーク・アフリカ民族連合(英語: Mozambique African National Union, MANU)、2年早く結成されたモザンビーク国民民主連合(ポルトガル語: União Democrática Nacional de Moçambique, UDENAMO)の3勢力が合流して結成された。 しかし、独立派の政治活動はモザンビークにおける反体制活動に対する弾圧のために、国外のみに限られていた。 翌1963年、FRELIMOは社会学者のエドゥアルド・モンドラーネを首班とした司令部をダルエスサラームに設置し、ポルトガルからの独立に向けての活動を本格的に開始した。。 FRELIMOは結成後2年間ポルトガルからの平和的独立を模索したが断念し、モンドラーネは独立の手段を平和的手段からゲリラ戦とする方針転換を行った。 1960年代以前からアメリカ合衆国はアフリカにおける民族主義者を支援する立場をとっていた。この支援はウィルソン主義に基づき、植民地の民族自決と独立とを支持するものだった。国連もまたポルトガルに対し植民地を解放する政策を取るよう圧力を掛けていた。しかしポルトガルは逆に東側諸国から支援を受けたモザンビークの民族主義者への独立支援を中止しない場合、NATOからの脱退を行うと示唆し、その結果西側諸国からの圧力は弱まった。
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