戦況推移
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「第二次ドネツク空港の戦い」の記事における「戦況推移」の解説
2014年9月5日にミンスク議定書が調印されたが、ドネツク国際空港ではドネツク人民共和国軍とウクライナ軍の間で散発的な小競り合いが続き、9月23日には空港近くで機関銃と砲迫の射撃が報告された。9月25日に取材を受けたドネツク人民共和国軍の匿名の情報将校によれば、「彼らが攻撃したとき、我々は彼らに自分たちの位置を示した。彼らは十分に武装し、T-64戦車と多連装ロケット発射機を保有していた。我々はそれらに対抗する手段を持っていなかった。」 彼がさらに語ったところによると、ドネツク国際空港はドネツク人民共和国にとって「ひどい頭痛の種」であった。空港は分離主義勢力が支配するドネツク市中心部の北側に位置し、ウクライナ軍にとって「好都合で有利な地点」で、砲迫火力によってドネツク人民共和国軍の陣地を狙うことが出来た。両者による「報復」の応酬は9月25日以降にさらに深刻となった。
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戦況推移
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1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結し威圧を開始。2月15日、中国共産党最高機関の中央委員会副主席鄧小平は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表し、宣戦布告する。 次いで2月17日、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃の後、ラオカイ、カオバン、ランソン各市占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。 中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。 この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、とくに西部には第316と、第345歩兵師団を中心とした正規軍2個師団ほど(約2万人)と民兵しかいなかったが、西部に限らずこの民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力退役兵を再集した部隊であったために、実戦経験が豊富、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製・中国製の長距離砲を含む各種の武器弾薬を保有。さらに旧南ベトナム政府軍やラオス内戦当時の右派ミャオ族から接収したアメリカ製兵器(M16A1アサルトライフル、M101 105mm榴弾砲、M114 155mm榴弾砲、M113装甲兵員輸送車、M41ウォーカー・ブルドッグ、M48パットン、UH-1 イロコイ汎用ヘリ、F-5 フリーダムファイター軽戦闘機、A-37 ドラゴンフライ軽攻撃機、A-1 スカイレイダー攻撃機など)の大半も使用可能であり、正規軍に匹敵する精鋭が揃っていた。 中国人民解放軍は国産62式軽戦車、T-54中戦車のライセンス生産型である59式中戦車を主力にベトナム各地に侵攻したが、ソ連から供与されたRPG-7対戦車擲弾筒や9M14対戦車ミサイルといったベトナム軍の兵器により多数が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原のため、人海戦術を用いてさえ歩兵を進めるのは困難だった。 そのため中国軍は軽戦車から69式戦車といったMBT(主力戦車)まで投入、地域によっては山越えをしてベトナム側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲や火炎放射器で攻撃した。 文化大革命の悪影響や兵站等の準備不足に加え、初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(例えば第3歩兵師団ではM-30かD-30と思われるソ連製122mm長距離榴弾砲を使用していたことが確認されている)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固で、それを潰さない限りベトナム軍防衛線を突破できないため、中国軍は対砲兵レーダーをも使用した。 対するベトナム軍は、兵力において圧倒的に勝る中国軍の背後機動を防ぐため、複数の陣地を構築、敵に損害を与えつつ後退する縦深陣地戦を多用した。 中国軍はその後、主力を欠くベトナム軍の後退に合わせ進軍、2月25日にカオバン、2月26日にラオカイを、3月5日にはベトナム北東部の要所ランソンを占領、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、野戦軍はその過程で大きな被害を受けていた。 一方、ベトナム軍は包囲されることなくランソンから後退し、南方に約100km離れたハノイ郊外に構築された巨大陣地に入った。ハノイ市民も陣地構築を手伝い、軍とともに小銃や対戦車火器を抱いて陣地に入り、決戦の構えをみせた。 ランソンを中国軍が占領したその日の夜、ついにカンボジア方面に展開中だったベトナム軍主力が合流し、ハノイ郊外の巨大陣地には5個師団が入った。ベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、直ちに中国共産党中央軍事委員会は撤退を決定、翌日の3月6日の「ベトナムへの軍事的懲罰の完了」宣言とともに、中国軍に対し撤退を命じた。撤退を始めた中国軍に対しベトナム軍主力は追撃開始するも、中国軍は占領していた省から撤退するにあたり、設備や家畜などを略奪し、住宅やインフラを徹底破壊する非人道的な焦土作戦を行い、3月16日までにベトナム領から撤退した。中越双方が勝利宣言し、戦争は終結した。 中国軍がベトナム北部を制圧しながら、突然撤退した背景には、ベトナム軍の激しい抵抗や、自軍の指揮命令系統が問題を抱えていたこと、ソ連が介入する可能性への懸念があったとされる。一方で、中国軍にとっては、人海戦術による多大な人的損失は覚悟しながらも、実情は彼らの想像をはるかに超える損害であったのではないかと思われるものの、中国側からすれば、領土紛争をめぐって自身の受けた侵入や攻撃の制裁を行い、当初の戦争目的を果たしたと言いうる状態を達成した形となっている。 当時ベトナム軍は、ベトナム戦争での実戦経験に加え、ソ連からの支援を受け、高い水準を開戦直後より維持していた。 中国では中ソ対立以前のソ連製兵器をもとに装備の自主開発をおこなってきた。例えば、当時中国軍の最新型戦闘機は 殲撃七型であったが、ベトナム軍ではMiG-21の完成型、MiG-21bisやMiG-21MFが運用されていた。 中国軍主力機は殲滅7型、レーダー塔載殲撃六型、レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機は轟炸五型や轟炸六型であった。 地上では、中国軍はT-54のデッドコピー、59式戦車や、それをスケールダウンした62式軽戦車が多く、ベトナム陸軍も関係悪化以前に供与されていた59式戦車と、そのオリジナルのT-54やT-55が主力で、旧式のT-34-85さえも使用されていた。 戦争を取材した欧米の記者達は、中国軍がベトナム軍の縦深防御陣地に自殺的な突撃を行い大量の死者を出していると発信した。 また、当時の人民解放軍はプロレタリア文化大革命の影響で階級を廃止しており、複数部隊が合流したり共同して戦闘を行う際、それぞれの指揮官の序列が曖昧になり、混乱をきたした。 また、指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮不能になった時に、代わって指揮をとる次級者の序列が存在せず、指揮命令系統が崩壊する例が多かったと言われる。 この戦争の後、中国において軍の近代化が最優先の国家目標とされることとなる。 中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていたにもかかわらず、自国の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかった。 この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書「対越自衛反撃戦総結」では2月17日~27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張、自軍戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。 一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死、4万人が負傷、合わせて1割の死傷者が出たと記している。
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