戦況の変化と会議の進展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
「ユトレヒト条約」の記事における「戦況の変化と会議の進展」の解説
議論は遅々として進まず、戦争は密約に基づいてイギリスが怠慢行動を展開した結果、フランス側が巻き返していった。6月6日、アン女王がイギリス議会で講和の見通しが立ったと報告した。スペインとフランスの相互王位継承権放棄のめどが立ったためであった。1712年7月10日にフェリペ5世がフランス王位請求権放棄を宣言する文書に署名して、ユトレヒトでの国際会議もようやく軌道に乗った。 8月19日、パリでイギリスとフランス・スペインがスペイン戦域における停戦に合意し、講和会議の進行が急がれた。11月7日、ユトレヒトにおいて、まずフランスとポルトガルの間で停戦条約が締結された。続いて1713年3月14日にフランスとサヴォイアが停戦し、同日にスペイン、イギリス、フランス、オーストリアがカタルーニャからの撤退とイタリア戦域における停戦で合意した。王位継承問題については、1612年11月にフェリペ5世が正式にフランス王位継承権放棄を宣言し、その弟ベリー公と従弟オルレアン公がスペイン王位継承権を放棄していたが、1613年3月15日にベリー公らの請求権放棄が公式に宣言されたことで、講和の前提が揃った。
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