戦況の悪化と宇久須の明礬石
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「伊豆珪石鉱山」の記事における「戦況の悪化と宇久須の明礬石」の解説
ビンタン島など、南方からのボーキサイトの供給は1943年半ば頃までは順調であった。しかし1943年後半からは戦況の悪化に伴い南方からの海上輸送が困難となっていく。ボーキサイトの利用が困難となりつつなる中で、改めて国産原料によるアルミニウム製造が注目されるようになった。当初、国産原料の中で最有力とされたのは中国産の礬土頁岩であり、アルミニウム製錬各社はそれぞれ礬土頁岩の製錬法についての研究を始めた。また伊豆半島の宇久須と、宇久須の後に発見された仁科の明礬石の利用も進めていくこととなり、伊豆半島に近い日本軽金属清水工場では、1943年10月に明礬石苛性ソーダ法の製錬施設の建設が始まり、12月には明礬石マグネサイト法のパイロットプラント建設が開始された。 宇久須の明礬石鉱床は、佐藤謙三経営の佐藤鉱業所であったが、1943年9月、明礬石の開発促進を目的として新たに宇久須鉱業が設立された。これより先、1943年1月に地元の静岡県は「静岡県軽金属増産推進協力会」を設置して伊豆の明礬石開発をバックアップする体制を整えていたが、1943年11月には軍需省の後援のもと、「伊豆明礬石緊急戦力化現地促進協議会」へと改組強化され、バックアップ体制を強固にした。 明礬石鉱床については各鉱床とも探鉱が行われたが、深田鉱床、芝山鉱床、八向鉱床、八木沢鉱床では探鉱坑道を掘削しての探鉱が進められていた。中でも明礬石の主力鉱床とされた深田鉱床は、探鉱の結果、鉱床の詳細な状況が把握された。当初、伊豆の明礬石鉱床で有望視されていたのはアルミナの含有量が多く、埋蔵量も豊富であると推定されていた仁科の明礬石鉱床の方であった。しかし探鉱を進めていく中で、仁科の明礬石鉱床はアルミナ含有量は平均すると20パーセント程度であり、鉱床内に明礬石、粘土、珪石が混在しており、鉱床内の明礬石の品位は安定せず、富鉱と貧鉱が混在しており、肝心の明礬石自体も石英以外にカオリナイトなどの夾雑物が多いことがわかった。一方、宇久須はアルミナの含有量自体は13パーセントから15パーセント程度と仁科よりも低いものの、鉱床内の鉱石の質は安定しており、鉱石の夾雑物もほぼ石英のみで浮遊選鉱による選鉱が容易である上に、推定埋蔵量が約2000万トンと極めて豊富であるため、宇久須の明礬石鉱床開発が優先されることになった。しかも宇久須の明礬石鉱床は比較的海に近く、鉱石等の輸送に有利であり、地形的にも比較的傾斜が緩やかで鉱山設備建設が容易であった反面、仁科は海から遠く、しかも地形が急峻であり、輸送や鉱山設備の建設面から見ても不利であった。 1944年に入ると、戦況はより悪化して大陸からの礬土頁岩の輸送も困難となった。1944年8月、日本軽金属では政府からの指示に従って伊豆の明礬石をアルミニウム主原料とする方針に変更された。1945年に入ると、ボーキサイト、礬土頁岩の入手はほぼ不可能となり、明礬石に頼らざるを得なくなる。1945年1月15日、軍需省航空兵器総局内に伊豆明礬石開発本部が設けられ、2月25日には政府は「伊豆明礬石の緊急増産開発要綱に関する件」を決定し、国が主導して宇久須の明礬石開発を進める体制が整えられた。そして1945年2月には宇久須鉱業は改組されて住友鉱業の経営となった。関係者の証言によれば、土肥の旅館に総責任者として陸軍少将が常駐し、宇久須の旅館では中佐ら数名の将校が生活し、宇久須小学校に開発本部の現地事務所が設けられた。
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