戦時買収後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:19 UTC 版)
阪和電気鉄道は1944年5月に買収され、電動車41両、付随車(制御客車を含む)34両の計75両が国鉄の所属となった。同時期に国鉄に買収された私鉄各社の電車は、多くが小型車・低出力車で、使用機器も標準的なものではなかったため、戦後、車両不足が解消されると木造車は早々に、半鋼製車は主に1950年代半ばから1960年代半ばにかけて廃車された。一方、阪和形電車は標準的な国鉄形電車より車体長は短いものの大出力で、車両数も70両以上であったために1960年代後半まで使用されている。 買収された阪和形電車は阪和線でそのまま使用され、戦後しばらくは旧阪和時代からの形式称号のままであったが、1944年の事故で休車となっていたモヨ100形104は1952年に復旧された際にクヨ500形507となり、同じく事故車で旧山手線買収時には買収対象外となっていたモタ300形307は、1952年に旧伊那電気鉄道の買収車である木造のサハフ310形サハフ311の改造扱いで復旧されてクテ750形752となっている。一方で、モタ300形313が1948年に事故により廃車となっている。 その後1953年の称号改正で私鉄買収車は買収元会社ごとの4桁の称号に整理されることとなり、旧南海鉄道の電車には旅客用電動車にモハ22XX形、旅客用の制御車にクハ62XX形が割り当てられ、 制御電動車:旧モヨ100形→モハ2200形、旧モタ300形→モハ2210形、旧モタ3000形→モハ2250形 制御車:旧クヨ500形→クハ6200形、旧クタ60形→クハ6210形、旧クタ700形→クハ6220形、旧クテ750形→クハ6230形、旧クタ3000形→クハ6240形、旧クタ7000形→クハ6250形 のように形式区分がされている。さらに、1959年には新性能電車の増加に伴う称号改正により、「車長20 m未満」を表す10・20番台の中から「クモハ20形・クハ25形」が割り当てられ、 制御電動車:旧モタ300形→クモハ20000番台、旧モヨ100形→クモハ20050番台、旧モタ3000形→クモハ20100番台 制御車:旧クタ700・クテ750形→クハ25000番台、旧クヨ500形→クハ25050番台、旧クタ3000・クタ7000形→クハ25100番台、旧クタ600形→クハ25200番台 のように番台区分がされている。一方、TDK-529-A 主電動機はMT900という国鉄形式となり(国鉄臨時車両設計事務所刊「電車性能曲線」による)また、台車もKS-20・D-20・T-20・H-20・N-20をひとまとめにしてDT28という国鉄形式となった。 その後阪和線には42系などの国鉄形電車が転入しており、これらと併結しての運行を実施するために1950年7月から1951年6月にかけて、阪和形電車の主制御器の改造が以下の通り実施されている。 弱界磁用限流継電器および低圧ヒューズの新設、カム電動機回路用接地スイッチおよび制御回路開放器の接点追加 マスターコントローラーのカム軸スイッチおよび配線の変更 主制御器・界磁弱め接触器の配線変更 一方で、制御装置やブレーキ、パンタグラフなどは開業以来の酷使により引続き故障が頻発し、これに加えて戦時買収時の南海による部品引き揚げ措置などの悪条件もあり補修部品は不足しており、当時阪和線を所轄していた大阪鉄道局天王寺管理部はその状況を再三に渡り、膨大な故障記録を付して国鉄本社に訴えていた。[要出典] これらの問題を解消するため[要出典]、国鉄形電車で実施されていた、戦中戦後の酷使による荒廃を戦前の水準にまで戻すために1950年から行われた通称”更新修繕”および桜木町事故の教訓を踏まえて1954年から行われた通称”更新修繕-II”を阪和形電車にも実施するとともに、以下の通り、各機器の国鉄制式品へ換装する標準化工事が順次実施されて故障頻度が大幅に低下した[要出典]ほか、一方、主電動機と台車は引続き用いられた。なお、改造時期、内容は各車ごとに異なるものであった。 標準化工事自動ブレーキ(U自在弁→A動作弁化)[要出典] 制御器(東洋電機電動カム軸式ES-504-A・513-A→鉄道省制式電空カム軸式CS5・電動カム軸式CS10・CS10A形) マスターコントローラ(東洋電機製造ES-93-Aなど→鉄道省制式MC1形)[要出典] パンタグラフ(→国鉄標準のPS13形) 連結器(柴田式自動連結器→柴田式密着連結器) 更新修繕戦中・戦後の荒廃箇所の復旧 更新修繕-II客用扉のプレスドア化(一部車両は別途施工) 絶縁強化のための屋根布の設置と通風器のグローブ形ベンチレーター化(一部車両は更新修繕時に施工・更新修繕-IIを未施工) 雨樋の設置(一部車両は更新修繕時に施工・更新修繕-IIを未施工) 運行番号表示器の設置(一部車両は更新修繕時に施工・更新修繕-IIを未施工) その他両運転台車の片運転台化(主に更新修繕と同時施工) ラッシュ対策としての2扉車の3扉化(主に更新修繕-IIと同時施工) 運転室の奥行拡大および半室運転室の全室化(主に更新修繕-IIと同時施工) このうち、主制御器は一旦CS5へ換装された車両もその後CS10系へ変更しており、最終的にCS10およびCS10Aで揃えられた。これはCS5・10の混在はCS5搭載車の反応の遅れから加速時にCS10搭載車に負担をかけ、乗り心地のみならず保守面でも好ましくなかった[要出典]ことによるものである。 その後もスチールサッシの木枠化、運転台窓のHゴム固定化など同世代の国鉄制式電車に実施されたのとほぼ同等の内容の工事が実施された。更に塗色は最終的に朱色1号(オレンジバーミリオン)一色となり、往年の形態は次第に崩れた。だが、買収国電で国鉄制式電車と同等の改修工事を施されて使用された車両は他になく、国鉄当局の阪和形電車に対する評価は高かったものと推測される[要出典]。なお、1962年にはクハ25005は試験塗装として黄5号(カナリアイエロー)一色に変更されたが、旧形国電ではこれが唯一の事例となった。 一時、制御車の一部について片町線での運用例もあったものの、国鉄制式車より大きな車体幅や自重などの要因もあって、阪和線以外の他線区への転用は難しく、全車がほぼ一貫して阪和線で運用され、1966年から1968年にかけて廃車となった。 またクモハ20103は廃車後暫く鷹取工場で保管され、数年間構内入替車として使用された後、解体された。
※この「戦時買収後」の解説は、「阪和電気鉄道の車両」の解説の一部です。
「戦時買収後」を含む「阪和電気鉄道の車両」の記事については、「阪和電気鉄道の車両」の概要を参照ください。
- 戦時買収後のページへのリンク