石狩川水系総合開発計画
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戦後の石狩川の開発は1949年(昭和24年)の北海道開発庁設置と現地執行機関である北海道開発局の設置で幕を開ける。建設省・運輸省(現・国土交通省)と農林省(現・農林水産省)の機能を統一させ効率的な総合開発を図るために設置され、翌1950年(昭和25年)には北海道開発法も制定された。これ以降『北海道総合開発計画』の下で石狩川水系における河川総合開発事業・国営農業水利事業も進められていく。なお、北海道開発局は省庁再編に伴い国土交通省の下部機関となっている。 戦前に進められていた治水事業(捷水路事業・堤防建設など)は引き続き進められていた。だが戦後の治水は物部長穂の提唱した「河水統制事業」の流れを汲む河川総合開発事業が主流となり、その根幹事業である多目的ダム建設が全国で盛んに行われていた。背景には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民政局所属の官僚がニューディーラーで占められていたこともあり、河川総合開発のモデルであったTVA方式の治水が勧められていたこともある。 こうして石狩川水系でも多目的ダムによる治水対策が重要視され、1951年(昭和26年)には幾春別川において『幾春別川・芦別川総合開発事業』に基づく北海道初の多目的ダム・桂沢ダムの建設が着手された。これには水力発電事業として電源開発株式会社も参加し、空知川の左支川である芦別川上流に芦別ダムとキムンダムを設け、そこから水路を通じ発電用水を幾春別川に導水し、三笠・歌志内の炭鉱地帯への電力供給を図った。桂沢ダムは1957年(昭和32年)に完成し、これ以後石狩川の主要支川にダムが計画される。 1953年(昭和28年)には『河川改訂改修計画』の石狩川版にあたる『石狩川改修全体計画』が策定され、戦争で中断していた月形以北の捷水路と堤防整備を行う一方、石狩川最大の支流でありながら河川整備がほとんど未改修であった空知川への多目的ダム建設が計画され、南富良野町に金山ダムが1959年(昭和34年)着手され1967年(昭和42年)完成した。金山ダムは北海道唯一の中空重力式コンクリートダムでもある。だが全体計画が策定された後も1961年(昭和36年)と1962年(昭和37年)の2年連続にわたり水害の被害を流域が蒙った。このため全体計画は1964年(昭和39年)に改定されたが、翌1965年(昭和40年)に新河川法が施行され石狩川水系は一級水系に指定されたことから、再々度の計画改訂が実施された。この『石狩川水系工事実施基本計画』によってダムと河川改修による洪水調節が図られ、これに基づき石狩川本川唯一の多目的ダムである大雪ダムや石狩川本川最後の捷水路事業となる砂川捷水路、忠別ダム(忠別川)・豊平峡ダム(豊平川)・漁川ダム(漁川)といった特定多目的ダムが建設され、北海道も補助多目的ダムとして美唄ダム(美唄川)を1969年(昭和44年)より着工した。さらに幌向川の夕張川への合流工事や旧幾春別川の幾春別川からの締切など河道改修も並行して行った。 ところがこうした努力を嘲うかのように1975年(昭和50年)と1981年(昭和56年)、石狩川はなおも大水害をもたらした。特に1981年の水害は浸水面積61,400ha、浸水戸数約22,500戸という過去最悪の水害であり石狩川の本川・支流で氾濫が相次いだ。特に多目的ダムが無い雨竜川・夕張川・千歳川での被害が激しく、長期間にわたって浸水被害を与えた。これに対し開発局は基本計画の全面改訂を行い、旧計画の倍に当たるピーク時洪水流量(18,000トン/秒)を基本高水流量とし、これに対応する治水対策を計画した。主なものとしては滝里ダム(空知川)・定山渓ダム(小樽内川)といった新規ダム計画に加え、桂沢ダムと大夕張ダム(農林水産省管理・夕張川)のダム再開発事業、遊水池(砂川遊水池)、放水路(石狩放水路・千歳川放水路・永山新川)、捷水路(雨竜川捷水路)、築堤・浚渫・川底掘削とあらゆる方法による治水対策を実施・計画した。 現在はダム再開発事業に基づく桂沢ダム再開発(新桂沢ダム・三笠ぽんべつダム)と大夕張ダム再開発(夕張シューパロダム)が行われている。特に夕張シューパロダムは2012年(平成24年)に完成すると北海道最大・日本屈指の多目的ダムとなる。北海道も補助多目的ダム事業として当別ダム(当別川)や徳富ダム(徳富川)が現在建設されている。
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