国営農業水利事業
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「農林水産省直轄ダム」の記事における「国営農業水利事業」の解説
野洲川ダム(野洲川・滋賀県)。農林水産省直轄ダムとしては草創期に建設された。現在ダム再開発事業を施工中。 山王海ダム(滝名川・岩手県)。「志和の水喧嘩」と呼ばれる凄惨な水争いを根絶させ、流域の農業に貢献している。 古来より稲作を中心に農業を発達させた日本ではあるが、稲作に必要な農業用水の確保は最も重要な課題であった。概ね河川より直接取水する方法で用水路を整備していったが、旱魃になればその水源は容易に涸れてしまい、水の確保を巡って流域内において水争いが絶えず、鎌や鍬を持って流血の惨事となることも希ではなかった。また、ため池建設の際に水神を鎮める目的で人身御供も行われ、各地で悲話が伝えられている。こうした水問題を解決すべく大規模なダムによる用水補給の必要性が問われたが、技術的問題や慣行水利権の問題で導入には至らなかった。太平洋戦争の敗戦後、日本は極度の食糧不足に陥り餓死者や栄養失調に苦しむ国民が急増した。こうした不満を背景に食糧メーデーなどデモが頻発。治安上にも悪影響を及ぼしていた。背景にある日本共産党の活動に危惧を抱いた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はデモを弾圧する一方で国民の不満を逸らすために緊急食糧援助を行う傍らで、早急な食糧増産態勢を敷く必要に迫られた。 1947年(昭和22年)GHQの指令を受けた農林省は慣行水利権に捉われない広域にわたる大規模新規開墾計画として国営農業水利事業を開始した。これは大河川を水源に利用してダム・ため池や頭首工、用水路などを系統的に建設して新規水利権と農業用水を確保し、これを大規模に整備した水田・畑地などの圃場(ほじょう)に供給することで農業生産力を高め、早期に食糧自給率を回復することを目的とした事業である。事業発足と同時に大井川(静岡県)・九頭竜川(福井県)・野洲川(滋賀県)・加古川(兵庫県)の四河川流域が対象地域に指定され、その根幹事業として水源であるダムが建設された。これが現在の農林水産省直轄ダムのはしりであり、野洲川ダム(野洲川)や羽鳥ダム(鶴沼川)、鴨川ダム(鴨川)などが建設された。同時に新規開墾した農地を水害から守るために国営農地防災事業が施行され、治水目的として農地防災ダムが各地で建設された。 1950年代に入ると人口が爆発的に増加し、さらなる食糧増産態勢が求められた。国営農業水利事業はこの頃より国営土地改良事業または通称「かん排」と呼ばれる国営かんがい排水事業に名称が変わっていたが、その目的と重要性は変わらずむしろより大規模になっていった。特に大規模な事業については事業費が莫大なものとなるため国際復興開発銀行(世界銀行)の支援を受けて事業が行われた。該当するものとして愛知用水や篠津地域泥炭地開発事業などが挙げられるが、これら大規模事業においても直轄ダムは水源としての重要な位置を占めた。この頃建設された大規模直轄ダムとして青山ダム(当別川・北海道)、岩洞ダム(丹藤川・岩手県)、山王海ダム(滝名川・岩手県)、宇連ダム(宇連川・愛知県)、永源寺ダム(愛知川・滋賀県)、北山ダム(嘉瀬川・佐賀県)などがあり、現在もなお重要な役割を担っている。 こうしたダムと連携して愛知用水を始め豊川用水、明治用水、吉野川北岸用水などの大規模用水路も整備され、かつて不毛の地と呼ばれた地域も豊穣な土地へと変化した。ダム建設はコメを筆頭とした食糧増産に寄与したほか、昭和初期まで頻発した凄惨な水争いや迷信による人身御供の悪習を根絶させたのである。
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国営農業水利事業(1947年~)
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「北上特定地域総合開発計画」の記事における「国営農業水利事業(1947年~)」の解説
敗戦後の日本において最も懸念された問題は極端な食糧不足であった。闇市などで糊口を凌いでいた国民は次第に不満を蓄積させ、それは1946年(昭和21年)5月19日に「食糧メーデー」という形で爆発した。東京都世田谷区民約25万人が皇居へ押し寄せいわば革命前夜を思わせる光景であった。背後にある日本共産党の政治運動化に危惧を感じた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はいわゆる「赤化」を阻止するため運動の弾圧や食糧の放出を行うと同時に、全国各地で農地の新規開墾を行うことで食糧増産を図り、国民の不満を逸らそうとした。 こうした政治的背景もあり1947年(昭和22年)より農林省(現・農林水産省)は大井川(静岡県)・九頭竜川(福井県)・野洲川(滋賀県)・加古川(兵庫県)の四河川で「国営農業水利事業」を展開した。農地開墾の水源を開発することでかんがい用水を供給し、食糧増産を軌道に乗せるというのが目的である。北上川水系においては内務省が「北上川五大ダム計画」を一部変更して田瀬ダムを放置したまま、胆沢川の石淵ダム(いしぶちダム)を優先的に建設させる方針を採り、1945年(昭和20年)秋より建設に着手した。これは石淵ダムの建設が、田瀬ダムに比べかんがい効果が大きいという理由による。一方農林省は紫波郡で北上川に合流する滝名川に農林省直轄ダムを建設する計画を立てた。山王海ダム(さんのうかいダム)である。 北上川本流は豊富な水量を有していながら、農業用水や飲み水としては全く使うことの出来ない河川であった。これは源流部にあり硫黄を産出する松尾鉱山から流れ出る坑内水が原因である。この水は硫酸によって強酸性を示し、利用すればイネの枯死を招くことから目の前に豊富な水がありながら流域の農民は大きなジレンマを抱えていた。止むを得ず支流の河川を使ったが農地面積に対して流域面積が狭いために十分な水量が行き渡ることは有り得なかった。後藤寿庵による「寿庵堰」など創意工夫はされていたが根本的な解決にはならず、流域各地で水争いが頻発した。特に紫波郡では「志和の水喧嘩」と呼ばれるほど激しく、死者が出るほどの血で血を洗う凄惨なものであったと伝えられている。また、かんがい用ため池の建設に際し当時[いつ?]。迷信が幅を利かせていたこともあり、水神を鎮めるための生贄を建設時に捧げるということもあった。胆沢郡では千貫石堤(現在の千貫石ダム。胆沢郡金ケ崎町)建設で「お石」という女性が千貫で買われ、埋められたという悲話も残っている。大正時代には稗貫郡・和賀郡でも平賀千代吉によって農業用ダム建設促進決議が採択されるなど、かんがい専用ダム建設は地元の悲願でもあった。 農林省は滝名川に当時「東洋一」の規模を有する山王海ダムを1953年(昭和28年)に完成させ、長きにわたって懸案であった紫波郡へのかんがい用水供給が図られ水喧嘩はこれにより撲滅された。また石淵ダムも同年に完成し、胆沢扇状地は肥沃な農地として生まれ変わり「胆沢平野小唄」にも伸びる胆沢の底力と地域住民にも称えられた。こうしたかんがい整備とダムの効用は、治水重視であった「北上川上流改修計画」を転換させる一つのポイントにもなった。
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