羽鳥ダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 22:55 UTC 版)
羽鳥ダム | |
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所在地 | 左岸: 福島県岩瀬郡天栄村大字羽鳥字唐沢国有林 右岸: 福島県岩瀬郡天栄村大字羽鳥字行人塚 |
位置 | 北緯37度16分18秒 東経140度04分34秒 / 北緯37.27167度 東経140.07611度 |
河川 | 阿賀野川水系鶴沼川 |
ダム湖 | 羽鳥湖 (ダム湖百選) |
ダム諸元 | |
ダム型式 | アースダム |
堤高 | 37.1 m |
堤頂長 | 169.5 m |
堤体積 | 318,000 m³ |
流域面積 | 42.7 km² |
湛水面積 | 201.0 ha |
総貯水容量 | 27,321,000 m³ |
有効貯水容量 | 25,951,000 m³ |
利用目的 | かんがい |
事業主体 | 農林水産省東北農政局 |
電気事業者 | - |
発電所名 (認可出力) |
- |
施工業者 | 三幸建設工業 |
着手年/竣工年 | 1950年/1956年 |
羽鳥ダム(はとりダム)は、福島県岩瀬郡天栄村大字羽鳥、一級河川・阿賀野川水系鶴沼川に建設されたダムである。
概要
農林水産省東北農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、阿武隈川流域の白河地域におけるかんがいを目的としたダムである。堤高37.1mのアースダムで、アースダムの規模としては全国屈指である。ダムによって形成された人造湖は羽鳥湖(はとりこ)と呼ばれ、周辺地域がリゾート地域として開発されたこともあり、ダムよりも有名となっている。2005年(平成17年)には天栄村の推薦で財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。ダム建設前の湖底には57戸の住戸があった。ダム建設後も建設反対派が存在していた。
沿革
福島県中通りを貫流する阿武隈川は福島県の中核都市を流域に持つが流域は必ずしも穀倉地帯とはいえなかった。江戸時代には福島(幕府領20万石)、二本松(二本松藩10万石)、白河(白河藩15万石)の3か所を除き石高10万石以下の小藩がひしめき、流域の新田開発はなかなか進捗しなかった。これは阿武隈川より離れた地域は水の便が悪く、さらに阿武隈川自体も流域面積(1,865.2平方キロメートル)の割には平均流量が少なく(毎秒52.07トン)、少雨の際には容易に干ばつの被害を招きやすかった。このため阿武隈川の平均流量より約8倍(毎秒395.86トン)の豊富な流量を有する阿賀野川(福島県内では阿賀川と呼称される)から取水することが考えられた。
明治に入り、猪苗代湖を水源とした安積疏水が1882年(明治15年)に完成し不毛の土地であった安積原野が開墾されたことから、阿賀野川水系を利用した新規農地開拓に弾みが付き、同じく水源確保に難渋していた白河・矢吹地域への開拓を促進するため1941年(昭和16年)より国直轄事業として「国営白河矢吹開拓建設事業」が策定された。阿賀野川水系より流域変更を行って阿武隈川水系への農業用水供給を図るため、その水源として計画されたのが羽鳥ダムである。
一番多くの恩恵を受けた福島県西白河郡矢吹町では、昭和31年11月11日、矢吹小学校にて羽鳥ダム竣初式典が盛大に開催された。
目的
「国営白河矢吹開拓建設事業」は戦争のため中断し、戦後は農林省に事業が継承され直轄事業として再開された。羽鳥ダムは予備調査を経て1950年(昭和25年)より現在の地点に建設が開始され、6年の歳月を掛けて1956年(昭和31年)に完成した。当時は全国各地で「国営農業水利事業」が展開されていたが、羽鳥ダムは当時としては日本最大級の規模を誇るかんがい用ダムであった。
ダムによって貯えられた水は奥羽山脈を貫くトンネルによって分水嶺を越え、阿武隈川水系隈戸川へ導水される。そして隈戸川に建設された日和田頭首工より取水されて白河地域・矢吹地域へ農業用水が供給される。受給対象となるのは須賀川市、西白河郡矢吹町・泉崎村、岩瀬郡鏡石町・天栄村の1市2町2村に及び、水田1,600haと畑560haの新規開拓農地に用水が供給された。こうして「国営白河矢吹開拓建設事業」はその後さらに整備が行われ、1964年(昭和39年)に全事業が完了した。
農林水産省が施工したダムは、その多くが「国営農業水利事業」などの完了後ダムの管理が所在地方自治体(都道府県)へ移管されるか、当該地域の土地改良区へ委託管理をさせるのが常であるが、羽鳥ダムについては阿賀野川水系から阿武隈川水系に流域変更を行っているため、利害調整などを円滑に行う必要があることから完成より一貫して農林水産省が直轄で管理を行っている。現在は農林水産省阿武隈土地改良調査管理事務所が所管している。
羽鳥湖


ダムは右下の茶色の部分
ダムによって出来た羽鳥湖は、アースダムの中で現在でも屈指の規模を誇っている。現在既設のアースダムでは湛水面積と総貯水容量において日本一であり、宮城県で現在建設が進められている長沼ダムが完成すると二位になる。
羽鳥湖は周辺がリゾート地域として早くから開発が行われている。夏は羽鳥湖畔オートキャンプ場や羽鳥湖高原にあるエンゼルフォレスト白河高原といったキャンプ場併設の総合リゾート施設、冬はグランディ羽鳥湖スキーリゾートや、スキーリゾート天栄(2022年シーズンより閉業)といったレジャー施設、太平洋クラブのゴルフ場やブリティッシュヒルズなどがあり、多くの観光客が訪れる。秋は紅葉の名所である他、冬は湖面が結氷する。下流には湯野上温泉や大内宿もあり、南会津地域の観光地として賑わいを見せる。しかし、湖底には旧羽鳥村の57戸の集落が沈んでおり、日本三大開拓地となった矢吹町の広大な水田開発のために故郷を離れた約300名の住民の労苦を偲ばせる。
アクセス
羽鳥ダム・羽鳥湖へは白河方面からは東北自動車道・白河インターチェンジより国道4号経由で福島県道37号白河羽鳥線を北上するか、あるいは矢吹インターチェンジより福島県道58号矢吹天栄線経由[1]で国道294号(茨城街道)・天栄バイパスに入り、国道118号に進むと到着する。一方会津若松・鬼怒川温泉方面からは国道121号より国道118号に入り、羽鳥湖・天栄方面へ進むと到着する。公共交通機関では会津鉄道・湯野上温泉駅が最寄の下車駅となる。
関連項目
脚注
- ^ このほか、福島県道58号矢吹天栄線で白河市大信隈戸地区を経由するルートもある。ただし、同地区の西部から天栄村にかけて幅員が狭く、12月中旬から4月下旬にかけては冬季閉鎖となる。また、落石の危険が伴うため、白河市大信町屋地区には国道294号に迂回するよう、案内がされている。
外部リンク
羽鳥ダム
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1876年(明治9年)、明治天皇東北巡幸の際、白河藩から没収し官有地となった矢吹ヶ原一帯の開発利用の建言などから皇室財産に収納され、宮内省直営農場となった。1885年(明治18年)、矢吹ヶ原一帯の開発なくして農民の繁栄はないと考えた大和久村(現大田原市)の星吉右衛門は当時の福島長官村上楯朝に開田計画の建白書を提出。これは羽鳥集落地内に丘堤を設置し、鶴沼川の流水を貯留、トンネルを掘り西白河郡西郷村真名子に導水して阿武隈川を利用し矢吹ヶ原一帯を開田するというもの。しかし、会津の鶴沼川下流域の反対にあい採用されなかった。10年以上が経過した1897年(明治30年)、計画を修正し再度申請したものの採用されることは無かった。1915年(大正4年)、地元有志と協議し矢吹ヶ原の開田実施計画を繰り返し福島県知事に申請し、ようやく県は羽鳥地区の実地調査を行った。また、1919年(大正8年)に角田某が事業実施に尽力したものの、目的を果たすことなく敢えなく中止となった。 1885年(明治18年)から絶え間なく続いた地域活動は時の地方産業振興の目的と合致し、1924年(大正13年)に農林省土地利用計画として樹立。勢いそのままに1927年(昭和2年)、鶴沼川を羽鳥地内で堰き止め、矢吹ヶ原一帯を灌漑する計画で本格的な調査に着手することとなった。その後、調査や実測などにより訂正・補正が繰り返され、1930年(昭和5年)の計画完成を目標としていたものの政府の方針変更や地質などの諸事情により、幾多の陳情請願が重ねられた。また、当時鶴沼川の水利権を握っていたのは会津電力会社で既に鶴沼川下流に田代発電所建設を計画していた。そのため福島県は1928年(昭和3年)に鶴沼川の水の使用について同社と締結。そして星吉右衛門が建白書を提出してから半世紀以上が経過した1939年(昭和14年)、第75議会で協賛を得て1941年(昭和16年)に矢吹ヶ原開墾国営事業所開設の段取りで羽鳥湖築造並びに矢吹ヶ原開墾の計画が本格的に始動することとなった。1941年(昭和16年)8月、2ヶ月の予定で測量調査隊が羽鳥山中に入り、実測と並行し堰堤数カ所の地質並びに基礎地盤を調査。この時、堰堤の築造箇所について3つの候補地が提案された。1つの案は鶴沼川を羽鳥地区の下流で堰き止めるというもので、残す2つは羽鳥地区の住民の立ち退き回避のため上流で堰き止めるという案だった。そのうち貯水池として効果の高いものは下流で堰き止めるという案で、最終的にこの案が採択された。翌年4月、工事監督員詰所が設置され本格的な作業に移った。しかしながら太平洋戦争の戦時体制に入ったことで、長い年月と地元民の尽力を要し発足した大事業にまたも障害が立ちはだかり歩みを遅めた。1945年(昭和20年)、日本が戦争に敗れて食糧難の時代に入り、食料増産対策が進み当事業が改めて国策として取り上げられた。そして、1949年(昭和24年)には羽鳥ダム築造工事が本格的に着手されることとなった。途中、戦災復興建設工事で支障があったものの、食糧増産につながる工事として羽鳥湖築造工事も早期完成が望まれていたため工事は順調に進んだ。山奥に位置した現場は電気が通っていなかった頃とは打って変わって電灯がつき、ラジオが鳴り響き、各地から視察見学者が訪れ活気に満ちて工事は進行した。尚、工事は三幸建設が宮城・宇都宮刑務所などの囚人430人を駆使し行われていた。 勿論、羽鳥地区の住民は故郷を捨てなければならず、立ち退き補償なども絡むことから賛成派・反対派で対立が生じた。総戸数57戸のうち賛成派25戸、反対派32戸となった。また反対派の中にもただ移転を拒否する者だけでなく、完工後の羽鳥湖や周辺の観光資源の開発・利用の権利を盛り込む要望などもあった。対立中は、反対派が「反対闘争」と書かれた看板を掲げるなど溝は深まり、暴力沙汰に発展するほどとなっていた。この対立は1947年(昭和22年)まで続き、会合で繰り返し意見の交換が行われたものの統一した結論に達することなく全戸が近隣の矢吹町・鏡石村などに分散移住することとなった。
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