篠津地域泥炭地開発事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:39 UTC 版)
河川総合開発と並行して強力に実施されていたのが農地開拓である。戦後の食糧難を解決するには農地面積の拡大が不可欠とした農林省は1947年(昭和22年)に『国営農業水利事業』を策定、大井川・九頭竜川・野洲川・加古川の4河川で開始した。農業用ダムと用水路・頭首工などを系統的に建設し運用することで効率的な農業生産を図ることを目的としたこの事業は、石狩川でも実施された。石狩川では北海道開発局農業水産部が主体となり国営農業水利・灌漑排水事業を夕張川流域や雨竜川流域で実施した。これに伴い建設されたのが大夕張ダム(夕張川)や鷹泊ダム(雨竜川)、尾白利加ダム(尾白利加川)などである。 そしてこれら石狩川流域で実施された最大の農地開発が『篠津地域泥炭地開発事業』である。契機となったのは1954年(昭和29年)8月に来日した世界銀行の農業調査団が石狩川流域を視察したことより始まる。調査団は既に八郎潟や根釧原野、尾張丘陵・知多半島等の融資対象地域を調査していたが、コストパフォーマンスの面で篠津を中心とした石狩川泥炭地が最も有望な農業地域になると結論を出した。こうして愛知用水などと共に世界銀行の融資を受ける農業開発地域として1956年(昭和31年)より事業に着手することとなった。 泥炭地は大量の水分を含み、そのままでは全く農地としては役に立たないため第一に実施されたのは泥炭地の水分を排水する「内水排除」であった。既に内水排除については明治中期に篠津運河の建設が始められていたが、当時の技術では泥炭地の土壌対策を克服できず、最終的に戦争などもあって建設途中で放置されていた。このため内水排除を行うため篠津運河の建設再開が実施された。篠津運河に泥炭地の水を排水することが当初考えられていたが、農地面積拡大のためには用水路の建設も必要となることから、篠津運河に用水路機能を追加することになった。これに伴い篠津運河に石狩川の水を取水することが考えられ、樺戸郡月形町の石狩川本川に石狩川頭首工が建設され、ここを起点に運河が整備されることとなった。また、用水補給を強化するために支流の当別川最上流部に1963年(昭和38年)青山ダムが建設され、灌漑用水が篠津原野に補給されることとなった。 運河の掘削は困難を極めたが次々と新しい土木技術や土木機械を投入し、揚水機場を設置して原野の隅々まで用水が行き渡るよう整備された。こうして『篠津地域泥炭地開発事業』は着手から15年の年月を費やし1971年(昭和46年)に完成した。農地として不適であった広大な泥炭地を農地に転換する事業は国内外でも例が無く、世界の農地改良事業におけるパイオニアとなった。現在は11,000haに及ぶ水田となっており、きらら397の耕作を始めとした北海道屈指の穀倉地帯に変貌している。
※この「篠津地域泥炭地開発事業」の解説は、「石狩川」の解説の一部です。
「篠津地域泥炭地開発事業」を含む「石狩川」の記事については、「石狩川」の概要を参照ください。
- 篠津地域泥炭地開発事業のページへのリンク