建設再開
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こうして放置されていた新世界ビルディングを引き受けたのが、グランド観光株式会社社長の三木 英一郎(みき えいいちろう、1921年〈大正10年〉 - ?)であった。三木は当時まだ38歳に過ぎず、『オール生活』は「このドデカイ建物を運営している親方がなんとまだ三十八歳、瘦身白皙の青年紳士であることは何人も驚異の瞳を見張らざるを得まい」と書き立てている。三木は戦後に進駐軍相手のキャバレー経営を始め、当時は数多くのキャバレー、クラブ、ホテルを経営している人物だった。 三木は、東急が所有していた築地の土地に目をつけて売却を申し入れたのを契機に、東急幹部との知遇を得、更に会長の五島慶太へと接触する機会も得た。この際に三木は五島へ、現代に於けるキャバレーやバーの盛況ぶりを力説。心を動かされた五島は三木を全面的に応援することを決め、「三井物産から持ちこまれて困っている」新世界ビルを「君の構想でやってみたらどうだ」と持ち掛けたとされる。 こうして三木は東急や三井のバックアップのもと、資本金1億円の株式会社新世界を設立。内訳は三木が4,000万、三井が3,000万、東急が3,000万であった。この三者の共同出資により、1959年(昭和34年)3月になって、ようやく工事の再開が決定。実際に再開されたのは7月3日のことだったが、11月2日に竣工し、翌3日に開館を迎えるという短期間完工を達成した。 三木は内装段階に進んだ建設工事の現場に、自らのアイディアを吹き込むため毎朝姿を現している。三木の要望に沿うため、ビルには実施設計後に様々な変更が加えられたといい、シンボルとなった屋上の鉄骨の寺塔も、新たに塔屋の上に建てられることとなったものであった。
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建設再開
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2008年5月、16年ぶりに建設が同年4月より再開されたことが報じられ、窓ガラスの取り付け工事が始まった。建設には北朝鮮で携帯電話事業の展開を計画中のエジプト企業オラスコム・テレコム社(当時の会長はナギーブ・サウィーリス)が関わっていたとされ、1億8000万ドルを投資したという情報もあった。2012年4月15日の金日成の生誕100周年までの完成を目指しているとされたが、この目標もついに達成されることはなかった。 2012年9月23日に北京の旅行会社のスタッフが建物内部へ入った。その際建設関係者から「完工まであと2、3年を要する」と示唆された。その後、しばらく建設に関する報道はなかったが、2016年12月15日に韓国の聯合ニュースが2017年中に開業する可能性を報じた。2017年7月27日にはAP通信が「ホテルの正面に看板が取り付けられた」と報じている。2018年からは、夜間のライトアップも行われている。2018年8月には、朝鮮中央放送の社屋で火災が発生した際に、一時的に放送設備が当ホテルに移されたとの情報もある。 もっとも、現在でも監視員が常時監視しており、平壌直轄市内の観光コースからも外されている。
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建設再開
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国鉄線として建設できなくなった北越北線を第三セクター鉄道として建設することになり、1984年(昭和59年)8月30日に北越急行が設立された。こうして1986年(昭和61年)2月24日に東口側から工事が再開された。 まず卵型断面のショートベンチ工法で、上半をカッターローダー、下半をバックホウで掘削する方式で32 km578 mまでの174 mを掘削したが、仮インバートの盤ぶくれが激しくなり支保工の座屈などが発生したため断念した。続いて上部に直径3 mの導坑を先進させて地山の応力を解放させる導坑先進ショートベンチ工法に切り替えて32 km670 mまでの92 mを掘削したが、これも土圧が限度を超えて支保工の座屈などが発生して断念となった。結局、中央部に導坑のみを先に掘削して後に本坑への切り広げを行う方針として、中央導坑先進工法で掘削を行った。人力掘削により、25 cmの掘削を1サイクルとして、毎回吹付コンクリートの施工と支保工の建て込みを行ってわずかずつ前進したが、131 m掘削して32 km801 mに到達した時点で、1サイクル25 cmにつき3 m近い押し出しがあるような状況となり、これ以上の掘削が困難となった。結局、1987年度(昭和62年度)末には東口側から導坑掘削を続けることを断念した。 人力掘削では地盤が膨張してくる速度に追いつかず、かつ支保工が大きな圧力を受けて導坑の形や向きを制御するのが困難であったため、安全で高速な施工をするためにはトンネルボーリングマシン (TBM) を製作して投入するのが最良と判断された。300 tf/m2(約2.94 MPa)の土圧に耐え、3,500 tfの推進ジャッキの能力を持つTBMが設計・製作された。儀明斜坑口において1988年(昭和63年)7月にTBM発進基地を作る工事が開始され、1989年(平成元年)1月11日にTBMが発進した。当初は順調に工事が進んだが、やがて天端が崩落してずりを除去するためにTBMを一旦後退させなければならないことが増えていった。32 km984.5 mの地点までTBMにより前進したが、1989年(平成元年)2月15日に掘削中に押し出し量が急激に増加してTBMのカッターの回転が不可能となってしまった。そこでTBMを一旦後退させてカッターを回転させようと試みたが、TBMの後退速度より地山の押し出し速度が速く、掘削した区間をすべて押し戻されてしまった。掘削済みの本坑に出た後も地山の押し出しは止まらず、セメント袋を積み上げて築いた簡易バルクヘッドも破壊され、スチールファイバーを混ぜた厚さ3.0 mのバルクヘッドを打設してようやく押し出しを止めることができた。結局ほぼ100 mに渡って押し出され、TBM発進前より後退してしまった。 TBM掘削が順調に進められた区間は、工事中断前に薬液注入を行っていた区間であったことから、薬液注入が効果を上げるものとみて注入工法の検討が行われた。1989年(平成元年)7月24日から様々な薬液の試行を行いながら、手掘りのシールド工法を実施して前進した。東口側からも同様に1989年(平成元年)7月2日から注入を併用して前進し、ついに32 km851 m地点において1992年(平成4年)10月29日に導坑の貫通を迎えた。東口側は平均月進4.9 m、斜坑口側は1.5 mであった。 以降は本坑断面への切り広げ施工が行われた。東口側は1988年(昭和63年)5月8日から、導坑掘削済みの区間について本坑断面への切り広げが開始された。一方斜坑口側でも1993年(平成5年)1月13日に本坑断面への切り広げを開始した。切り広げ工事は超ミニベンチ工法を採用したが、導坑掘削時に行った薬液注入の効果や、ガスが事前に抜けていたことなどによって地山の特性が改善し、比較的順調に工事を進められた。それでも平均月進が10 m程度に留まる掘削の難しいトンネルであることに変わりは無かった。1995年(平成7年)3月7日、32 km937 m地点においてついに本坑の掘削工事が完了した。最終的なトンネルの完成は1995年(平成7年)11月7日で、1973年(昭和48年)12月7日の着工以来、途中の中断期間を含めて21年11か月を要したことになる。 鍋立山トンネル建設に関して、1994年(平成6年)5月26日に土質工学会賞を日本鉄道建設公団が受賞した。建設期間を通じた殉職者は5名であった。トンネルの総工費は299億2000万円であったが、このうち工事再開後の645 mだけで145億7500万円を投じており、この区間のメートル単価は約2260万円となっている。 こうして屈指の難工事となった鍋立山トンネルは、1997年(平成9年)3月22日の北越北線あらため北越急行ほくほく線の開通により供用開始となった。
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