トンネルの完成
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君帰工区が1978年(昭和53年)3月に竣工したことにより、塩沢トンネルの全区間が完成した。しかし、中山トンネルなどの工事遅れにより、上越新幹線全体の開通は1982年(昭和57年)11月15日となった。塩沢トンネルの建設費は約269億円で、このほかに渇水対策費約22億円を費やした。
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トンネルの完成
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「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「トンネルの完成」の解説
中山トンネルの完成に上越新幹線全体の開通時期が依存していたこともあり、水没した工区の復旧後は工事が急ピッチで進められた。地質・残工事量・後続作業との兼ね合いなどを検討の上で工区割が再編された。作業員約2,000名が投入され、迂回坑を利用して増やされた本坑掘削現場で24時間3交代制の猛スピードで工事が進められた。四方木工区では、立坑でズリを運ぶ装置の稼働率が93パーセントに達するという記録的な値となった。1981年(昭和56年)8月、上越新幹線の開業予定が翌1982年(昭和57年)の11月と発表された。これに間に合わせるためには、トンネルを3月までに完成させて後工程の軌道工事・電気工事に引き渡す必要があった。 1981年(昭和56年)10月から12月にかけて、中山工区と高山工区の本坑工事が順次完了していき、残されたのは四方木工区と小野上南工区の境界付近となった。この区間では1981年(昭和56年)7月27日に迂回坑が貫通した。これは、迂回坑ではあったが中山トンネルの全区間が貫通したことを意味し、また四方木・高山の両工区が下流の小野上南工区とつながったことで、水没の恐れがなくなったことも意味した。小野上南工区の本坑工事は11月末まで続けられ、106 km430 m地点で完了した。これは当初設定の工区では小野上北工区を完全に含み、四方木工区の大宮方130 mまでをも含むもので、総延長は4,720 mとなった。そして四方木工区側から残り40 mの工事が行われ、12月23日に貫通してようやく中山トンネル全区間の本坑が貫通した。 1982年(昭和57年)3月17日、群馬県知事や近隣町村長、公団総裁や請負会社の社長らが臨席して、中山トンネル完成式が行われた。代表者により最後の軌道用コンクリートの打設が行われた。これによりトンネルは土木工事から軌道工事に引き渡された。 トンネルの建設がまだ行われている中でも、既に完成した区間では軌道の敷設が始められていた。引き渡しを受けて最後の区間の工事が進められ、4月に軌道工事が、5月に電気工事が完了した。7月23日に試運転が開始され、11月15日についに開通を迎えることができた。 14,857 mのトンネルに、約10年の歳月とのべ230万人の作業員が投入された。中山トンネルのメートル当たりの建設費は約839万円に上り、上越新幹線の全トンネルの平均約330万円を大きく上回った。わけても2回水没し、八木沢層に苦しめられた四方木工区の建設費はメートル当たり3467万円という多額に上った。トンネルの長さ14,857 mをかけると、総額は1246億5023万円となる。この他に、渇水対策費として約119億円を費やしている。これだけの難工事であった中山トンネルであるが、上越新幹線全体で72名の殉職者を出しているのに対して、2名(資料によっては4名)の犠牲に留まっている。2回の水没事故も犠牲者を出すことがなかった。このトンネルを、新幹線は約4分で走り抜ける。
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