第2次世界大戦以降の河川事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:32 UTC 版)
「太田川」の記事における「第2次世界大戦以降の河川事業」の解説
相次ぐ豪雨・台風災害と原爆投下によって再起不能に限りなく近い打撃を受けた広島市であったが、市民は挫けることなく再起に向けて歩みを始めた。こうした中で建設が中断していた太田川放水路は1946年(昭和21年)に建設再開に向けた準備を始めた。これには「太田川治水期成同盟会」を結成した広島市民による再開要望があったためである。だが、直ちに工事再開が行われた訳では無かった。移転を余儀なくされる広島市民の中には放水路建設事業に反対する意見もあったからである。 そもそも放水路建設が計画された背景には旧日本陸軍・海軍の強力な要望もあった。軍の影響力が極めて強かった戦前では用地取得もほぼ強制的に行われ、移転に対する対価=補償は到底住民の満足する物ではなく、軍の強制による移転には納得できないという理由から、建設再開に反対する動きが活発化した。また、放水路建設よりも広島市全体の復興が先決であるとの意見もあり、建設に対する賛否両論が渦巻き建設省(現国土交通省中国地方整備局)による調停は1951年(昭和26年)まで5年も掛かった。だが結局は建設再開に落ち着き、開鑿は再開された。 1961年(昭和36年)からは放水路の洪水調節機能を左右する要となる可動堰の建設が太田川・放水路分流点で始まり、放水路起点には祇園水門、太田川には大芝水門が建設された。こうした施設の建設も進み、1965年(昭和40年)通水に成功し周辺施設整備も含め事業開始から36年目の1967年(昭和42年)に全て完成した。放水路の完成以後も幾度か豪雨が流域を襲ったが、広島市中心部は水害の被害をほとんど免れており、現在でもその洪水調節機能を遺憾なく発揮し100万都市を水害から守っている。 水力発電では、戦後復旧と電化時代到来とともに昭和30年代には54,500キロワットの滝山川発電所の他4ヶ所の水力発電所が建設され、昭和51年には太田川水系では最大620,000キロワットの南原発電所が竣工した。2012年の時点で15ヶ所の水力発電所が稼働しており、総出力は875,800キロワットであり、これは中国地方の最大需要電力の7.3%に相当する[信頼性要検証]。広島県の2010年の総電力需要の推計値は27493メガkWhで、875,800kWの出力による年間供給電力(理論値)は28%に相当する。参考までに島根原子力発電所の2号機の定格出力は820,000キロワット、計画中の上関原子力発電所の1原子炉の定格出力は1,373,000キロワットである。ただし出力が最大である620,000キロワットの南原発電所は揚水式であり、島根原子力発電所他の余剰電力に依存している。
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