第2次世界大戦と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:31 UTC 版)
仁田は理学部長をはじめ学内外の要職を務め多忙を極めても、できる限り研究室での時間を確保するようにした。とくに第2次世界大戦末期から戦後にかけての理学部長はたいへんな負担と緊張を強いられる職務であった。アメリカ空軍の爆撃によって、理学部の屋上にも焼夷弾が落ち、周囲の民家が消失するに至って、教育と研究を大阪の都心部で継続することを断念し、学生はすべて希望の研究室に配属させ、研究室単位で地方へ疎開することにした。仁田研究室は兵庫県氷上郡鴨ノ庄村の村役場のとなりの倉庫を借り、そこへX線発生器を持ち込んで、研究の継続を図った。だが、おもに不安定な電力が原因で、X線が出せるようになったのは戦争が終わってからだった。仁田は(家族だけ鴨ノ庄村へ疎開させ)、理学部長として大阪にとどまった。占領軍のアメリカ人将校が理学部のサイクロトロンなどでどんな原子核研究をしていたかなどを頻繁に調査に来るのに応対しながら、ときに出される思いもよらない要求にとまどっていた。 朝鮮戦争を経て、日本が復興の軌道に乗るとともに仁田研究室の研究活動も次第に戦前の勢いを上回る発展をみせた。しかし仁田は研究以外の活動に時間をとられることが多くなった。もともと頼まれると断れない性格もあって、仕事は増える一方だった。1949年1月日本学術会議が発足すると、赤堀四郎教授(当時仁田を継いで理学部長だった)とともに初代の会員となった。1939年以来、学術会議の前身ともいえる学術研究会議の会員であったから、これは自然な成り行きということができる。京大と阪大で協力して、関西に研究用の原子炉をつくるために奔走した(熊取の京大原子炉)。呉祐吉教授や京大の桜田一郎教授の影響もあって、天然の繊維や合成高分子のX線による研究にも興味を持つようになり、結晶性高分子の構造研究やビニロン(ポリビニルアルコール)の吸湿性がなぜ高いかなど物性に踏み込んだ研究も行った。その結果、高分子学会の関西支部の設立にも力をかし、初代の関西支部長になった(1951年から1958年まで)。これにはクラレの友成九十九氏との親交も影響したと思われる。友成氏が音頭を取って設立した放射線高分子研究協会(1956年)の研究員としても参加した。仁田は関西経済界に多くの知己をもち、X線回折が役に立ちそうな話を耳にすると、進んで協力を買って出た。ガス製造のときにできるコークスが割れやすくて困ると聞くと、それは構造の問題だろうと見当をつけて、研究室へ持ち込んだ。大阪大学に蛋白質研究所を設立しようという要望が出ると、赤堀四郎教授と二人三脚で文部省とかけ合い、1958年実現に漕ぎつけた。 頼まれると断われない性格と書いたが、引き受けるとできる限りの力を注ぐので、忙しさは2乗にも3乗にもなった。めったにこぼすことを知らない仁田だったが、三度目の理学部長は遂に辞退することにした。さすがのエレファント(綽名だが、自分でも蔵書のシールに象の絵を入れていた)の馬力ももたなくなったかと思われたが、実は第一高等学校の学生時代に柔道で耳を傷めていたため、次第に補聴器に頼ることが多くなっていた。いまと違って、ガラス真空管の増幅器の補聴器だから、性能はあまりよくなかったらしく、「会議を主宰するのが苦痛だ」と打ち明けるようになった。ところが定年(当時は60歳)が近くなったとき、大仕事がやって来ることになった。
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