第2次世界大戦における戦歴
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「シャール 2C」の記事における「第2次世界大戦における戦歴」の解説
1940年5月10日にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始された時点において、シャール2Cは8両が稼働体制にあり、全車がフルネ(Fournet)大佐を指揮官とする第511戦車連隊第51戦車大隊に所属していた。5月19日、いわゆる“電撃戦”に成功したドイツ機甲師団が連合軍の前線を分断させたとき、第51戦車大隊はブリエ北西にあるジュドルヴィル(仏語版) - ノルワ=ル=セック(仏語版)近辺の森林に布陣して待機中で、このうち95号車「トゥーレーヌ」は待機地点に向かう途中のマリー=マンヴィル(仏語版)付近の路上で機関故障が発生し、修理中であった。 分断された連合軍が敗北と撤退を続ける中、この地域に配備されたフランス軍部隊はマジノ線による防衛計画に組み込まれていたために動かされぬままで、第51戦車大隊も上級部隊と共に待機を続けた。6月10日、パリが無防備都市の宣言と共に放棄され、連合軍、ひいてはフランスの敗北が決定的となると、フランス陸軍はこの有名な戦車がドイツ軍に捕獲されることを防ぐため、前線より引き揚げて鉄道機関によって南部へ輸送することを決定した。 第51戦車大隊の8両のシャール2Cは命令に従いナンシーの南西にあるゴンドルクール=ル=シャトー(仏語版)へ向けて移動すべく、最寄りの鉄道駅であり、重量貨物の取り扱い設備のあるランドル(仏語版)への移動を開始したが、マリー=マンヴィルで修理中であった95号車「トゥーレーヌ」は修理が完了していないために同行できず、更に92号車「ピカルディー」がピエンヌ(仏語版)で電気系統の故障により行動不可能となり脱落した。残りの6両は6月12日にはランドルに到達して鉄道輸送のための積載作業を開始し、翌13日の13:30から14:30にかけて3両ずつ2つの列車に別れて南への移動を開始した。同行できなかった2両はそれぞれ6月12日と13日に上級司令部の指示により爆破処分された。 列車は13日の夜から14日にかけてイタリア空軍の航空機による攻撃を受けたが、爆撃が不正確なこともあり、損害はなかった。ドイツ軍の侵攻が迫っている中、情報が錯綜して命令系統が混乱し、目的地となる集結地点が再三変更された上、フランス各地の鉄道はドイツ空軍の爆撃によって各所で線路が寸断されているため、路線は南部へ移動する他の部隊を載せた列車で混雑しており、6月15日、列車は予定より大幅に遅れて経由通過地点であったヌフシャトーに到着し、上級部隊との連絡が円滑に行えない中で辛くも受領した命令により、更に南、ディジョン北方にあるイス=シュル=ティーユ(仏語版)を目指した。 6月15日午後、2C重戦車を載せた列車はヴァル=ド・ムーズ(仏語版)東方にあるムーズ駅付近で、先行する燃料輸送列車が急降下爆撃機の攻撃により炎上したために前後5本の列車と共に線路上で停止、先行列車と後続列車に挟まれて前進も後進も不可能になり、更に、進路上にあるキュルモン・シャランドレ駅(仏語版)が既にドイツ軍により占領されたとの報告がもたらされた。 大隊長フルネ大佐は戦車を貨車から降ろして自走による退避を検討したが、2C重戦車を輸送している列車を始めとして、機関士が軍の指示を待たずに避難してしまったために機関車を動かせず、降車作業を行うための作業空間が確保できないために戦車を貨車から降車させることも困難となった。このままでは進撃してくるドイツ軍により抵抗もできぬまま捕獲されることが必至となったため、事前に上級司令部に与えられていた命令に従って列車上で自爆処分することが決断され、工兵隊の支援の下、翌日の午後までに全車が処分された。 こうして、フランス唯一の超重戦車は、実戦に参加したものの一度も戦闘を経験することなくすべてが失われた。
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