第2次世界大戦以降
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「ナタリー・クリフォード・バーネイ」の記事における「第2次世界大戦以降」の解説
バーネイの第二次世界大戦中の態度は、論議の的となってきた。1937年、トラブリッジ夫人(Lady Troubridge)ウナ・ヴィチェンツォ(Una Vincenzo)は、バーネイはファシズムの暴政について頭の弱い、わけのわからないことをたくさん話していると不平をこぼした。バーネイ自身は8分の1ユダヤ人であったし、彼女は戦中をロメイン・ブルックスとともにイタリアで過ごしたので強制収容所に強制移送される危険を冒した--これは彼女が姉妹ローラに手紙を書いて堅信の証拠を提供してもらうことによってのみ回避できた運命であった。が、にもかかわらず、イタリアでは戦争に関する他の情報源が無かったために、彼女は連合国を侵略者として描く枢軸国の宣伝を信じ、それで親ファシズムが彼女の平和主義の論理的結論であるように彼女には思われた。彼女が戦争中に執筆した未刊の回想録は親ファシスト的で、反ユダヤ主義的で、ヒトラーの演説を、見たところでは賛同して、引用した。 彼女の回想録の反ユダヤ主義的な諸節が、彼女がユダヤ人ではないことの証拠として用いられるつもりであったということはあり得る。あるいはまた、彼女はエズラ・パウンドの反ユダヤ主義的ラジオ放送に影響されていたかもしれない。いずれにせよ、彼女は、合衆国行きの船でユダヤ人夫婦がイタリアから逃れるのを実際に手助けした。終戦までに彼女の共感は再び変わっていたし、彼女は連合国を解放者と考えた。 「Villa Trait d'Union」は爆撃によって破壊された。戦争ののち、ブルックスはバーネイとパリに住むのを断った。彼女はイタリアに残ったし、ふたりはたがいにしばしば訪問し合った。ふたりの関係は、1950年代半ばまで単婚的のままであったが、そのときバーネイは最後の新たな恋人、引退したルーマニア大使の妻ジャニーン・ラホヴァリーに出会った。ラホヴァリーはロメイン・ブルックスの友人となり、バーネイはブルックスにふたりの関係がまだ最優先であると安心させ、三角形は安定しているように見えた。 サロンは1949年に再開し、若い作家たちを引きつけ続けたが、これは彼らにとっては、文学的名声を博す場所と同じくらいに、歴史の一片であった。トルーマン・カポーティは、ほとんど10年間にわたって、断続的な招待客であった。彼は、装飾を「完全に20世紀の初め」と描写し、バーネイが彼を、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の幾人かの作中人物のモデルに紹介したことを憶えていた。アリス・B・トクラスは、彼女のパートナーだったガートルード・スタインが1946年に没したのち、常連になった。1960年代の金曜日は、メアリー・マッカーシーとマルグリット・ユルスナールに栄誉を与えたが、マルグリット・ユルスナールは、バーネイの死から8年後の1980年に、アカデミー・フランセーズの初の女性構成員となった。 バーネイはエピグラムの執筆には戻らなかったが、自分が知る他の作家2人の回想録を2巻出版した、すなわち、『Souvenirs Indiscrets』(『Indiscreet Memories』1960年)と『Traits et Portraits』(『Traits and Portraits』1963年)。彼女はまたブルックスの回想録の出版者を見つけるためと、彼女の絵画作品を画廊に置くことのために努力した。 1960年代後半にブルックスはますます隠遁で、偏執症的になった。彼女は鬱にかかり、バーネイがよこした医師に会うことを拒んだ。彼女はふたりが晩年を排他的に過ごすことを希望していたが、晩年にはラホヴァリーの存在を苦々しく感じ、最後にはバーネイとの関係を断った。バーネイは彼女宛てに手紙を書き続けたが、返事は無かった。ブルックスは1970年12月に没し、バーネイは1972年2月2日に心不全で死去した。
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