建設再開計画の迷走
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1991年(平成3年)2月15日の衆議院連絡委員会では、運輸省(現:国土交通省)の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、東海旅客鉄道(JR東海)社長の須田寬は同年2月20日の記者会見で「議事録を精読したが、『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても、採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した。一方、須田の発言を受けて愛知県交通対策室長・中村真は「県としては、貨物線として再生してほしいという従来の姿勢に変わりはない。その望みが薄いなら、清算事業団自らが新会社を作るなり、主導的に有効利用に知恵を絞ってもらいたい」とコメントしたが、土地・高架橋を保有していた国鉄清算事業団は「(我々は)資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応を示していた。 運輸省事務次官・中村徹は翌1992年(平成4年)1月10日、運輸政策審議会答申12号(名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について)にて、「東海道線名古屋地区の混雑緩和を目的に、南方貨物線を西名古屋港線とともに、旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案し、同答申では「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた。同年時点で、(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は上下それぞれ約60本/日だったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で、増発が困難な状況となっていた一方、このころにはトラック輸送業界の運転手不足・大気汚染・交通渋滞による遅配などの問題から、(特に長距離貨物輸送で)モーダルシフト(鉄道・海運などへの輸送形態の変化)が進んでいた。そのため、中部運輸局が関係者を集めて「幹事会」を組織し、南方貨物線・西名古屋港線の旅客線化に向けた勉強会を開始したほか、同年6月5日に開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会では、南方貨物線の早期開業を国に働き掛ける決議がなされるなど、陸運業界を中心に、南方貨物線開業への期待が高まっていた。 当時、仮に南方貨物線を旅客・貨物併用線として工事を再開した場合の事業費は約165億円と概算されており、その建設費の捻出方法については「トラック運送業界や関係自治体(愛知県・名古屋市など)、JR東海・JR貨物などで第三セクターを設立するしかない」との見方が強かった。しかし、1992年当時の名古屋駅 - 熱田駅間の混雑率は約135%で、南方貨物線の旅客化は「意義が薄い」とされ、見送られた。1997年(平成9年)6月には、JR貨物の完全民営化のための基本問題懇談会で、南方貨物線について「将来、少なくとも貨物鉄道としてその有効活用を図ることが適当であると考えるが、種々解決すべき課題が残されていることから、今後、さらに関係者間において必要な検討・調整を進めていく必要がある」という意見が出たが、JR貨物・JR東海・名古屋市・愛知県など関係機関は、いずれも「自ら事業主体となることは考えられない」という姿勢を示しており、活用に向けた事業化は極めて難しい状況になっていた。 それ以外にも、常滑沖に建設された中部国際空港(セントレア)への空港連絡鉄道として活用する案も出されたが、これも実現しなかった。一方、西名古屋港線の旅客化工事の際には、南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された。
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