鳴鹿堰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/25 00:51 UTC 版)
鳴鹿地点は九頭竜川が福井平野に出る扇状地の上端に当たり、古来より農業用水の水源としてこの地点は重要視されていた。保元年間(1156年 - 1159年)に越前国惣追捕使・藤原国貞によって十郷用水が開削され、朝倉孝景や柴田勝家によって運用規定が整備され九頭竜川右岸の灌漑が図られた。一方左岸部には江戸時代、初代越前藩主・結城秀康(徳川家康次男)の重臣である本多富正により芝原用水が開削され、灌漑の他上水道と福井城防衛のための濠用水として利用された。これ以降この2つの用水路は福井北部の灌漑に大きな役割を果たした。この用水路の起点(頭首)部分に建設されたのが、鳴鹿堰である。当時は固定堰であった。 戦後、農林省は1947年(昭和22年)より大井川・野洲川・加古川において「国営農業水利事業」を展開し食糧増産を図った。九頭竜川も前述三河川と共に第1号として「国営九頭竜川農業水利事業」に着手、鳴鹿に固定堰・可動堰複合型の取水堰を建設した。これが1955年(昭和30年)に完成した鳴鹿頭首工であり、十郷用水・芝原用水の新規水源として利用された。その後1964年(昭和39年)より始まる「第二次国営九頭竜川農業水利事業」の中で固定堰部分が可動堰に改良され、全面的な可動堰として効率的な水運用が図られた。1980年(昭和55年)からは農業用水合理化に伴う余剰水を福井市への上水道として供給も行うようになった。
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