国営競馬時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:05 UTC 版)
オパールオーキットは10月上旬の東京競馬場で国営デビューを果たし、初戦の1600メートル戦で勝利をあげた。これに続いて10月中旬の目黒記念(2500メートル)に挑むが最下位になり、翌週に中山競馬場で1800メートルの条件戦を勝ったあと、11月中旬の中山記念(2400メートル)では再び最下位になった。このように、条件戦を勝っても距離が伸びて一流馬が相手の重賞では2戦して2回とも最下位だったことで、オパールオーキットに対する評価は低いものになった。 中山記念で最下位になった翌週、東京競馬場で1800メートルの条件戦を勝つと、オパールオーキットはさらに翌週の天皇賞(秋)に駒を進めた。 1954年(昭和29年)の天皇賞(秋)は、外国産馬の出走が解禁されてから、初めて実際に外国産馬が出走する競走となった。出てきた外国産馬は、オパールオーキット、ニュージーランド産馬のロイヤルウッド、大井競馬からオパールオーキットと共に移籍してきたゲーリーの3頭である。 天皇賞(秋)で中心視されていたのは4歳牝馬のチェリオだった。チェリオは前年3歳の時に牡馬に混じって皐月賞や東京優駿(日本ダービー)で1番人気になった馬で、この天皇賞(秋)の直前には中山記念(2400メートル)で60キロを背負って優勝しており、天皇賞では56キロで出走できることから有力視されていた。 そのチェリオを10月の目黒記念で破っているのが、外国産馬の1頭ロイヤルウッドである。関西馬のロイヤルウッドは国営競馬がニュージーランドから輸入した馬で、前年(3歳時)には北海道や関西で6連勝をあげた。今年は4歳になって夏に鳴尾記念も勝っている。ただし、体調面には不安があり、天皇賞の直前にも腹痛で最下位になったり、調教を休んだりしていて、天皇賞直前の前哨戦である中山記念を回避して天皇賞に出てきた。 この2頭に次ぐのがツルギサンとダイコロンブスで、それぞれ前哨戦の目黒記念、中山記念の2着馬である。 オパールオーキットの僚馬、外国産馬のゲーリーは天皇賞の約1ヶ月前、10月末に短距離ハンデ(1100メートル)を勝っていて、長距離の実績がないが、かえって未知の魅力があるとして直前の日経新聞では「穴馬」として取り上げている。一方、オパールオーキットは朝日新聞、毎日新聞、日経新聞の3紙の直前の事前予想記事では一切触れられておらず、毎日新聞に至っては「出走する見込みのある11頭」の中にすらあげられていなかった。にも関わらず、競走当日の馬券の売上では、最終的にオパールオーキットは4番人気に支持されている。 天皇賞当日は小雨の影響で、コースにはあちこちに水たまりができるほどの不良馬場となった。競走が始まると、オパールオーキットのペースメーカーで人気薄のゲーリーが逃げたが、道中半ばで失速し、3番人気のロイヤルウッドが代わって先頭にたった。しかし、これらを3番手でみていた1番人気のチェリオが先頭を奪い、そのまま第4コーナーを曲がって直線に入った。オパールオーキットは直線で後方から追い込み、残り200メートルで先頭に立つと、2着に2馬身半差をつけて優勝した。2着には6番人気のダイコロンブス、3着にはクリチカラが入った。チェリオは4着、2番人気のツルギサンは8着、3番人気ロイヤルウッドは7着、逃げたゲーリーは最下位だった。 この結果、1916年(大正5年)以来、38年ぶりに外国産馬が天皇賞(前身の帝室御賞典を含む)を勝った。優勝馬主の三坂成行は優勝盾と賞金150万円を獲得した。外国産馬が天皇賞を勝ったことで、様々な意見が出た。当時の朝日新聞は、不良馬場のためペースが遅かったことが幸いしたとし、「番狂わせ」「惑星」と評している。また、東京新聞の記者渡辺孝昌は「天皇賞を外国産馬が勝つことは問題である」という趣旨の文を『優駿』に寄稿した。一方、競馬ガイド社の中沢忠一は『優駿』で「天皇賞の外国馬への解放によって、今後外国の一流馬が日本へ遠征してくる嚆矢になるのではないか」と歓迎する記事を書いている。 なお、翌年1955年(昭和30年)の天皇賞(秋)では、外国産馬のファイナルスコアがハナ差の2着に入り、さらに次の年1956年には、オーストラリア産馬ミッドファームが天皇賞(秋)に勝っている。天皇賞は1971年から再び外国産馬の出走不可に転じ、2000年に解禁されるまで、外国産馬が出走することはなかった。
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