馬主活動
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「グランプリ (教育関連)」の記事における「馬主活動」の解説
日本中央競馬会馬主資格を有する。企業名の「グランプリ」をそのまま冠名として用いており、勝負服色は青、白元禄、袖白縦縞となっている。 2010年には所有馬のグランプリボスが朝日杯フューチュリティステークスに優勝し、2011年にはNHKマイルカップを制覇した。なお、2022年現在はグランプリ名義での現役馬は所有しておらず、事実上、北側雅司が法人として登録している「キャピタル・システム」に一本化された形となっている。こちらの勝負服色は黒、茶元禄、袖茶縦縞で、冠名に、北側の出身地である大阪府堺市百舌鳥を由来とする「モズ」を用いている。
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馬主活動
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父・雅信は国営競馬時代の1947年から馬主となっており、屋号の「菱雅」から「ヒシ」の冠名を用いてヒシマサル、ヒシマサヒデ、ヒシスピードといった重賞勝利馬を所有。雅一郎も中学生の頃から父に連れられて競馬場を訪れていた。1981年に雅信が死去し、総数200頭ほどの競走馬・繁殖馬を引き継いたが、当時競馬関連の費用が本業を圧迫するほどになっており、他方ではヒシマサル、ヒシマサヒデの血統に偏った馬たちが調教師に敬遠されていたことから、7年をかけて雅信がらみの馬を整理した。心機一転して新たな馬の購買に乗り出したが、生産者となじみの馬主や調教師が、馬が市場に出る前に直接取引を行う「庭先取引」の閉鎖性に阻まれ、競り市での取引が活発なアメリカに活路を求める。 1989年に初めてケンタッキー州での競り市に参加し、同年11月のセールでは競走馬時代にアイリッシュ1000ギニーを制していたケイティーズを100万ドルで落札した。1991年にはセクレタリアト産駒の牡馬を32万5000ドルで購買。同馬は旧所有馬を一掃してしまった雅信への罪滅ぼしのため、二代目の「ヒシマサル」となった。ヒシマサルは1992年に雅一郎に初の重賞勝利をもたらした。1993年には、アメリカのテイラーメイドファームに預託していたケイティーズの子・ヒシアマゾンが阪神3歳牝馬ステークスに優勝し、GI競走初制覇も果たした。1995年にはヒシアケボノがスプリンターズステークスを制し、日本のGI競走における最重量馬体重での勝利記録を樹立。以後もヒシアマゾンの2頭の妹などアメリカからの輸入馬が数々の重賞を制したほか、2002年から2003年にかけては日本生産馬のヒシミラクルが3つのGI競走を制した。 所有馬は当初は関東の厩舎にのみ預託していたが、のちに東西両方に預託している。関東馬はかつては父以来の付き合いである高木良三・嘉夫厩舎、矢野幸夫厩舎、稗田敏男厩舎のほか、中野隆良厩舎、国枝栄厩舎に主に預託された。関西馬はほぼ全ての馬が佐山優厩舎に預託されていたが、これは佐山が二代目ヒシマサル購入の際にアメリカまで同行し、同馬を預かった縁によるもの。またこの二代目ヒシマサルの新馬戦に騎乗した角田晃一は、その後ヒシミラクル・ヒシアケボノでGI4勝するなど、「ヒシ」軍団の主戦騎手として活躍した。晩年は佐山の定年が近いこともあり、河内洋厩舎や小島貞博厩舎に預託される馬もいた。 なお、ヒシアマゾンの競走馬引退後、種牡馬として実績のなかったヒシマサルと交配させたことで話題となった。このことで雅一郎は周囲から、自分が父親の馬を整理したように、息子が自分の馬を整理することになってしまう、と苦言を呈された。雅一郎にはヒシマサルを種牡馬として成功させたいという夢があり、そうした声に対して「なにをやるにも効率、経済一辺倒では、たとえ成功してもおもしろくない。また経済、つまりお金儲けなら、競馬より他でお金を動かした方が、ずっといい。やはりなんでも夢や執念があってこそ、だと思うんですよ」と語っていた。
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馬主活動
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1979年に日本中央競馬会の馬主資格を取得[要出典]。勝負服の柄は白、青山形一本輪、桃袖で、冠名は「トウカイ」を用いる。所有馬の多くは松元省一厩舎(2008年に勇退)に預託していた。また、東京優駿に優勝した牝馬ヒサトモの末裔を買い集めて長年にわたって保護し、一時は消滅寸前であったヒサトモの牝系を復興させた立役者として知られている。またヒサトモの6代孫であるトウカイテイオーで自らもダービー馬のオーナーとなっている。
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馬主活動
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日本中央競馬会 (JRA) と地方競馬全国協会 (NAR) の両方の馬主資格を取得している。勝負服の柄は桃、緑元緑、黒袖。冠名はダンツを用いるが、かつてはダンツーも使用していた。
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馬主活動
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勝負服は緑、白玉霰、白袖赤二本輪。 山梨県甲府で開業医をしていた祖父が往診時に馬を使っていたことと、みずからが通っていた学校(高校)が馬事公苑の近く、東京競馬場からそう遠くない場所にあったことが、競馬に興味を持ったきっかけだと語っている。競馬の馬主になることが夢だった祖父の遺志を継ぐ意もあった。個人馬主として初めて所有し初勝利をもたらしてくれた馬は、福永洋一騎手最後の騎乗馬であり、中京巧者として名を馳せたマリージョーイである。 後に福永洋一の息子である福永祐一が騎手デビューした際、マリージョーイが小田切の所有馬だったと知らなかった調教師が福永祐一に騎乗依頼をしたいと伝えた。小田切は事情を説明し「小田切の勝負服を息子さんに着せていいか、ご家族の思いをきいてもらえないか」と調教師に伝えることに。知り合いを介して福永家に伺った際、「ぜひ、乗せてやってください」といわれ福永祐一に騎乗してもらう事になった。なおその騎乗馬は勝利した。 ノアノハコブネが優駿牝馬(オークス)を制したその日は競馬場に行かず、監督を務めていた少年ソフトボールチームの試合に出かけていた。「GⅠ制覇は馬主を続けていればまた見られるかもしれないが、子どもの日々は二度と帰ってこないから」とのことである。なお、次に小田切の所有馬がGⅠを制したのは2006年のことであった(オレハマッテルゼが制した高松宮記念)。
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馬主活動
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馬主資格取得は1979年。勝負服は、かつては「黄、青一本輪、赤袖」という配色であったが、現在は「青、白襷」を使用している。冠名は特に用いないが、慶應大学時代にサッカー部(同学での名称は「ソッカー部」)に所属していた経験から、馬名の多くはサッカー経験に想を得たものとなっている。オフサイドトラップはサッカーの戦術、エルコンドルパサーはペルーの民謡「コンドルは飛んでいく」のことで、かつてペルーに住んでいたサッカー部の先輩からの発想、ハンソデバンドは日本代表にも選出された元プロサッカー選手・播戸竜二に由来する。また、1990年代より以前の所有馬は加藤修甫厩舎、二ノ宮敬宇厩舎に所属させることが多かった。 「トウコウ」の冠名で知られた父・喜八郎と親子二代の馬主であり、かつては良血馬を喜八郎、動きが良い馬を隆が所有するという形態が取られていた。馬の血統表やファミリーテーブル、セールの名簿を眺めることが趣味であるといい、血統に造詣が深い。所有馬はいずれも自身が考案した配合によって生まれたもので、事実上のオーナーブリーダー(馬主兼生産者)である。特に日仏で活躍したエルコンドルパサーがよく知られ、クロスが幾重にも掛けられたその配合は、アメリカの競馬誌『デイリーレーシングフォーム』において「フェデリコ・テシオ、マルセル・ブサックに続く (Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)」、「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう (With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)」と高い評価を受けた。 「我々は常に挑戦者でありたい」と語り、所有馬の海外挑戦に積極的な姿勢を表明している。1999年のエルコンドルパサーのフランス遠征に続き、2003年にはスシトレインのアメリカ遠征を計画した。ただしスシトレインの遠征は最終的に取りやめている。
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馬主活動
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2003年に馬主資格を取得。勝負服は白、赤十字襷、袖赤二本輪で、冠名はないが、岡が所属する京都馬主協会のサイト上で行われた馬名募集キャンペーンにて選出された馬名を持つ馬を所有することもあり、アカイイトもそのうちの1頭である。 馬主となったきっかけは、近畿大学時代の先輩による勧誘であったという。資格取得から初の重賞制覇(セレスハントのサマーチャンピオン)までは7年を要し、その後もセレスハントで交流重賞を3勝するも、中央の重賞にはなかなか縁がなかった。しかし、馬主となってから18年目となる2021年は、まず障害競走の重賞の京都ハイジャンプ(J・GII)をマーニで制し、ヨカヨカが平地重賞の北九州記念(GIII)を、そしてアカイイトがGI競走のエリザベス女王杯を制し、一気にGIオーナーへ駆け上がる躍進の年となった。 2018年には、日高町に生産牧場のサンデーヒルズを開業し、日高の馬産の振興に力を入れるなどオーナーブリーダーとしても活動している。 競馬関係者においては、騎手の幸英明と親交が深く、北九州記念やエリザベス女王杯での鞍上も務めた。その出会いは、岡が馬主資格を取得する前、幸がスティルインラブで秋華賞を制し三冠を達成した祝勝会の二次会の開かれた店に岡がたまたま居合わせたことで、現在は幸のことを「みゆぴー」と呼ぶ関係であるという。また、ノースヒルズの前田幸治のことを師と仰いでおり、アカイイトのエリザベス女王杯制覇によって、前田の所有しているキズナの産駒の初GI制覇は岡の所有馬で果たすこととなった。また、ヨカヨカの初年度の交配馬もキズナになる予定である。 また、九州産馬を愛しており、その理由として、自身の母親が徳之島出身であるからと述べている。
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馬主活動
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1971年、急死した父・信夫の後を継ぎ馬主となり、としてカントリー牧場の経営を引き継いだ。勝負服は黄色・水色襷。冠名は「タニノ」を使用しているが、2007年の東京優駿などを制したウオッカ、2010年の菊花賞を制したビッグウィークには冠名が付いていない。 タニノギムレットが出走した2002年の第69回東京優駿では小泉純一郎首相(当時)が、ウオッカが出走した2007年の第74回東京優駿では安倍晋三首相(当時)が来場し、両馬とも優勝し、2人の首相から内閣総理大臣賞を授与されている。 2022年6月をもって馬主業から撤退。活動51年目での馬主引退となった。
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馬主活動
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金子は競走馬の馬主としても著名である。1990年代の半ばに知人から馬を持つことを勧められ、ノーザンファームの吉田勝己を紹介されたのがきっかけとなった。金子は吉田の意欲と現代感覚に「パートナーとして信じられる」と感じ、また牧場の広大な風景にも感銘を受け、馬主として競馬界に参入した。勝負服色は図研のコーポレートカラーを用いた「黒、青袖、黄鋸歯形」。馬主名義は2005年秋ごろより個人名から「金子真人ホールディングス(株)」としている。 牡馬のディープインパクト、牝馬のアパパネと牡牝の中央競馬三冠馬を一頭ずつ所有しただけでも、個人の馬主としては日本の競馬史上他に例を見ないが、加えて「競馬の祭典」たる東京優駿(日本ダービー)をディープインパクトに加え、キングカメハメハ、マカヒキ、ワグネリアンで4回優勝。その他GI・JpnIに優勝したものに限ってもブラックホーク、トゥザヴィクトリー、クロフネ、ユートピア、カネヒキリ、ピンクカメオ、ラブリーデイ、ソダシ、アカイトリノムスメといった馬を所有。2015年にはサンデーレーシングに次ぐ史上2例目、個人馬主としては初の記録である旧八大競走とジャパンカップの完全制覇を達成している。また、自ら所有した馬の子も積極的に所有しており、上記の活躍馬のうちアパパネ、マカヒキ、ワグネリアン、ラブリーデイ、ソダシ、アカイトリノムスメは父母ともに自らの所有馬である。 馬は自ら選んで決めるといい、「おまえに馬が分かるかと決めつけられればそれまでだけど、私も競馬にはまって、だんだんと深みにはまった。わからないことをわかろうとしたいというのが深みで、そうでなければつまらない」と述べている。自身の馬選びは「目」から始まるといい、「目のいい馬は案外見つけづらいんです。ところが、目(目つき)の悪い馬はよくわかる。そういう馬はどんなに血統や馬体が良くても手を出しません。馬を見るときに気を付けているところをしいて挙げるなら「"目"」ですね」と述べている。 2021年8月22日、札幌記念をソダシで勝利して、JRA重賞通算100勝(うち、GIは29勝)を達成した。
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馬主活動
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日本中央競馬会 (JRA) と地方競馬全国協会 (NAR) の馬主として知られる。勝負服の柄は緑、青菱山形、青袖を使用。冠名は2014年まで「トーセン」(島川の音読み)、「エスティ」を使用していたが、「娘に反対された」「冠名の下の名前のストックが切れた」という2つの理由から、2015年の2歳馬からは冠名を使用しない方針を明らかにしていたが、2017年の2歳馬では再び「トーセン」の冠名を使用している。 セレクトセールでトーセンダンス(ダンスインザダークの全弟)、トーセングローリー(キンググローリアスの半弟)を落札するなど良血馬を多数高額で落札している。 他方で、現在は自らが走らせていた牝馬などを繁殖牝馬として繋養し生産を行っている「エスティファーム」(北海道沙流郡日高町)のほか、千葉県香取市に「エスティホースパーク」を所有する、トーセンファントム、トーセンブライト、ヴァンキッシュラン、トーセンモナークといった所有馬をプライベート種牡馬として保有しているなど、オーナーブリーダーとしての活動が顕著である(2021年に2歳を迎えた世代の所有馬21頭中19頭がエスティファームの生産馬)。 南米やヨーロッパなど、海外でも馬を走らせており、トレードで購買したマクマホンがデルビーイタリアーノなどを勝利するなど活躍している。
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馬主活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 09:40 UTC 版)
前夫の近藤利一とともにJRAの馬主としても知られる。 勝負服のデザインは水色、白袖青一本輪、青鋸歯形。前夫の利一の勝負服と似ているが、馬の選定を自分自身で行うこと[要出典]、利一所有馬にある冠名が英子所有馬には付けられていないこと、栗東・音無秀孝厩舎とのコネクションの点など、利一とは違う馬主スタイルを確立している。 また、所有頭数が少ない割に活躍馬が多いことで知られており、1走あたりの賞金獲得額(総獲得賞金÷総出走回数)では、馬主のなかでもトップクラスである。これは自分自身で血統、馬体を勉強していること[要出典]に起因する。
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馬主活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 13:58 UTC 版)
本人名義の勝負服は緑・黄袖緑一本輪、永井商事名義の勝負服は緑・緑袖白一本輪。冠名は預ける厩舎によって使い分けており、鈴鹿山脈に由来する「スズカ」のほか、「サンレイ(三重+鈴鹿)」、「ミスズ(三重県鈴鹿)」、「サン(三重県および太陽)」、「コモノ(菰野)」を使用。永井商事名義の冠名は「スリー」で、三重県からの連想。なお一部例外的に冠名を持たない馬も所有している。
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馬主活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:15 UTC 版)
英語で「賞賛・感心」を意味する「アドマイヤ(Admire)」の冠名で知られ、日本を代表する馬主の一人として多くの所有馬を保有していた。預託する厩舎は橋田満・松田博資・友道康夫・中尾秀正など。特に橋田を重用しており、毎年所有馬を預けていた。その理由として、「私が馬主になったのと、彼が調教師になったのが、同じ年」だからということと、「ダービーを勝った調教師は然るべき処遇をされるべき」と考えているからだとしていた。 勝負服は水色・白袖・青鋸歯形模様であり、所有馬は自身のイニシャルである「RK」の刺繍が入ったメンコをつけている場合が多い。 近藤自身は、元々はギャンブルは嫌いであったが、友人に競馬場に誘われたことをきっかけに競馬に興味を持ち、1984年に中央競馬の馬主資格を取得した。初めての持ち馬はカイタイオーという馬で、中央で1勝を挙げている。管理調教師は先述のように後年まで預託することになる橋田満であった。また、競馬は紳士の競技であるとの考えから、マナーを弁えない競馬ファンの存在を嘆く一方、毎年老人福祉のため妻名義で大阪市役所や所有馬のファンクラブなどに賞金の一部をそれぞれ寄付するなど、篤志家としての側面もあった。 馬主同士の関わりとしては、元プロ野球投手の佐々木主浩と親交があった。アドマイヤマジンという馬を共同で所有していたこともある。 なお、前妻である近藤英子は馬主として2007年の皐月賞で所有馬のヴィクトリーが勝利を収めているほか、2009年に8歳でG1を2勝したカンパニーはJRA賞特別賞を受賞している。英子の所有馬には冠名は付けられていないが、グレースアドマイヤなど「アドマイヤ」の名を持つ競走馬も所有している。
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馬主活動
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1974年、日本中央競馬会に馬主登録する。現在では個人馬主としては少数の部類である一世代50頭近くを所有する大馬主であり、2009年9月からは日本馬主協会連合会会長を務め現在は名誉会長。冠名の「メイショウ」は、本人が明石市生まれであることから「明石の松本」に由来し、また同じ発音の「名将」ともかけている。妻の和子、息子の好隆も馬主。所有馬のほとんどは栗東トレーニングセンターに入厩(ほぼすべての厩舎)しているが、一部美浦トレーニングセンターの小島太厩舎や中野栄治厩舎に預託している馬もいる。勝負服の柄は胴青・桃襷・袖桃であり、地方競馬・浦和競馬場所属騎手の吉本隆記が松本の許可を得て同じ柄の勝負服を使用している。 大牧場出身の良血馬に席巻されている日本競馬界の中で、松本は中小規模の牧場との交流や繋がりを重視し、持ち馬のほとんどがそれらの牧場出身の良血とは言い難い安価な馬というのが特徴である。松本自身が馬を見て選ぶことはせず、調教師や牧場が薦めた馬を安く買っている。そのため、後に東京優駿や天皇賞を制するメイショウサムソンを初めて生で見たのは、デビュー戦となった小倉競馬場のパドックであった。また、現役時代に所有していた馬の産駒も多く、メイショウホムラとその産駒メイショウバトラーは父子二代で重賞勝ち馬となった。中小規模の牧場で働く人々からは尊敬と親しみを込めて「メイショウさん」と呼ばれており、日高地区には「三愛会」という名の松本を囲む会もあるという。所有した牡馬が競走馬として活躍できなくても、誘導馬に転向させることが多い馬主のひとりでもある。 幾多の重賞を制しながらGⅠのタイトルには長らく縁がなく、2001年にメイショウドトウが宝塚記念を制するまでに28年を要したが、その後はメイショウボーラー(フェブラリーステークス優勝)、メイショウサムソン(皐月賞、日本ダービー、天皇賞・春、天皇賞・秋優勝)など、GⅠレースでの活躍も目立つようになった。 リーディング上位の馬主の場合、調教師に対して出走レースや騎手の起用などにまで注文を付けることもあるが、松本は基本的に「自分は全く馬のことは分からないから、(調教師に)お任せをしている。従って口を出すことはない」とすべて一任していた。ただし2007年、メイショウサムソンの凱旋門賞挑戦に際しては、敢えて騎手を石橋守から武豊に替えさせた。松本は石橋と武の2人を呼んで「今回ばかりは私のわがままを聞いて欲しい」と、石橋に武へのスイッチの了解を求めたという(日刊スポーツなどの報道より)。その後2010年代に入り武豊や、武幸四郎を本格的に自身の競走馬の主戦騎手に据えるようになった。 座右の銘は「人がいて、馬がいて、そして又、人がいる」。
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馬主活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:31 UTC 版)
日本中央競馬会(JRA)の登録馬主でもあった。勝負服の柄は紫、白鋸歯形を使用し、冠名は特に用いなかった。 ポプラ社の会長を退任した2010年以降より、リーチザクラウン、シンゲンといった重賞勝利馬をはじめ所有馬の一部を西山茂行、吉田千津らに譲渡した。
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馬主活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:33 UTC 版)
メイテック時代、同社の女性従業員から「実家の牧場にいる競走馬を買って欲しい」と懇願されたことを契機に、馬主としてのキャリアがスタートした。勝負服は赤、袖黄一本輪、黄鋸歯形で、冠名には「房朗が一番」を意味する「フサイチ」が用いられた。 フサイチコンコルドは1996年の日本ダービーにデビューわずか3戦のキャリアで優勝したことで大いに話題を集めた。2000年にはフサイチペガサス(Fusaichi Pegasus)がケンタッキーダービーに優勝し、アメリカ競馬でもダービーオーナーとなった。ケンタッキーダービー制覇は日本人馬主としては初の快挙であった。 良い馬を買うためには金に糸目をつけず「高い馬ほどよく走る」との持論を展開した。2003年にはサンデーサイレンス最後の産駒(母・セトフローリアンII)を3億3000万円で落札。同馬は関口がテレビ番組『ジャンクSPORTS』に出演した際に、司会の浜田雅功が関口と同じ兵庫県尼崎市出身という縁で命名することを許可、フサイチジャンクと馬名申請され、また同馬の預託厩舎を、国内外問わず一般公募したことでも話題となった。結果同馬はJRA栗東トレーニングセンターの池江泰寿調教師によって管理されることになり当初こそデビュー4連勝で皐月賞への優先出走権を得るなどしたがその後は低迷、船橋競馬へ移籍するなどして6歳まで現役を続けたものの結局生涯勝利数はデビューからの4勝のみに終わり、番組でも4歳以降はほとんど取り上げられることがなかった。 翌2004年7月に開かれた北海道・苫小牧での競走馬競り市「セレクトセール2004 サラブレッド当歳(0歳)馬の部」において、「エアグルーヴの2004」(父・ダンスインザダーク、母・エアグルーヴ。2006年8月31日に「ザサンデーフサイチ」と命名)を4億9000万円で落札し購買。競走馬競り市の当時国内最高額を記録した。同年にアメリカ・ケンタッキー州で行なわれた競り市では、ストームキャットを父に持つ1歳馬をそれぞれ800万ドル(約9億円)、340万ドル(約3億7400万円)で購入した。「ミスターセキグチ」と命名された前者はアメリカのボブ・バファート厩舎、「フサイチギガダイヤ」と命名された後者はJRA栗東の森秀行厩舎に預託されたが、いずれも芳しい成果を挙げることはできなかった。 所有馬が優勝した際、ファンサービスを兼ねて握手を求める多くの競馬ファンに対して気さくに握手をするなど、競馬ファンへの意識は高いものがあった。株式会社FDO(フサイチ・ドリーム・オペレーション)を設立し、競走馬関連情報サイト「フサイチネット」を運営。2005年11月3日に名古屋競馬場で開かれた第5回ジャパンブリーディングファームズカップ(JBC)は、FDOが冠協賛スポンサーとなり「フサイチネットJBC」として開催されたが、関口は「ファンから地方競馬の窮状を救ってほしいという意見を頂いているので、レースの協賛スポンサーに就任させていただくことにした」と話している。また、同日の大井競馬場でも1日まるごとプロデュースを行った。 それ以降、地方競馬振興にも力を注ぐようになり、みずからの所有馬を岩手、佐賀に預託することを宣言。また中央競馬からの転厩馬を船橋や笠松に預けた。 2007年4月28日に開催されたばんえい競馬においては、全12レースに協賛。一部を除いた地方競馬ではなじみになった個人協賛ではあるが、開催全レースの協賛は前代未聞である。 2007年9月にブルームバーグテレビジョンに出演した際に「高額馬への投資はもうやめる」と発言したのを皮切りに、2008年6月には「フサイチネット」のWebサイト休止を発表、同年10月ごろに重賞勝ち馬フサイチアソートを含む所有馬の数頭を突如手放すなど、馬主としての活動を縮小。残り少なくなった所有馬から2010年3月には松田国英厩舎に預託していたザサンデーフサイチ・フサイチセブンの2頭が大津地方裁判所に差し押さえられ、この時点で「経済的に苦境に陥っており馬主活動の継続は厳しい」と見る関係者も多かった。2011年9月にJRAに登録されていた競走馬(フサイチナガラガワ)が登録抹消され、JRAに所有馬はいなくなった。また、地方競馬の所有馬も、船橋競馬場に所属していたフサイチクローバーが2013年8月5日に地方競馬登録を抹消されたことでいなくなった。これにより、関口は事実上馬主から撤退している状態となっている。
※この「馬主活動」の解説は、「関口房朗」の解説の一部です。
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