自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化の意味・解説 

自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)

比羅夫丸」の記事における「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」の解説

このため当座貨物輸送力不足解消目指し安定して運航できる自前貨物船建造計画した。しかし、当時日本鉄鋼自給能力未だ低く第一次世界大戦主戦場となったヨーロッパからの鉄材輸入途絶と、1917年大正6年4月アメリカ合衆国参戦後、同年8月から同国実施した対日鉄材輸出禁止による極端な鉄材不足の中、やむなく木造貨物船建造となり、1917年大正6年11月12月白神丸(837.42総トン)と竜飛丸(841.01総トン)の建造が、この年から新造建造本格参入したばかりの横浜船渠着手され、翌1918年大正7年6月10月就航した。両船とも載貨重量985トン比羅夫丸型の4倍以上もあり、更に翌1919年大正8年4月には鉄道院木造石炭運搬船で、共に載貨重量1,477トン第一快運丸(1081.00総トン)と第二快運丸(998.56総トン)も貨物船転用して就航させ、貨物輸送増強図った。 これら4隻の自社貨物船就航による貨物輸送充実機に1919年大正8年3月4月には万成源丸蛟龍丸の2隻の貨物船解傭する一方、同じ4月旅客設備のある伏木丸(1,330.28総トン)を傭船して5・6便の定期が行われ、5月から7月までの1ヵ月半は第十小野丸を再度傭船し、更に翌1920年大正9年4月には客船敦賀丸(996.51総トン)を傭船し、旅客輸送力の増強円滑化が図られた。 白神丸竜飛丸就航相前後する1918年大正7年9月から、比羅夫丸型で運航され従来客貨混載であった旅客便の1便・2便・3便・4便への貨物積載廃止され引き続いて比羅夫丸型両船の貨物積載設備撤去旅客定員工事が行われた。比羅夫丸1919年大正8年2月田村丸同年6月後部覆甲板ウインチ貨物ハッチ撤去し、そこに甲板室増設し2等雑居室とし、また正甲板前部貨物ハッチ上に1段式の3等雑居室を設け比羅夫丸144名、田村丸136名の定員増加を図るとともに正甲板後部の“蚕棚式” 3等雑居室の一部を1段式に改装し3等旅客待遇改善図った。これにより、比羅夫丸従来旅客定員より144増し1等22名、2等115名、3等443名の計580名となったとされるが、これでは従来定員436ということになり、就航時の定員とされる1等22名、2等52名、3等254名、計328名と齟齬をきたすが詳細不明である。更に翌1920年大正9年2月には前部貨物艙(第2船艙)を3等船室改装して比羅夫丸82名、田村丸89名の定員増加図り比羅夫丸662名(554名?)、田村丸は661名(553名?)の旅客定員となった1920年大正9年2月からは比羅夫丸型で運航され接続列車の関係で最も混雑する最速の1便と2便に限り集中緩和目的で“急行料金”が徴収されたが、効果見られず、旅客定員の多い翔鳳丸型が就航した1924年大正13年11月には廃止された。なお、これより前の1918年大正7年7月から、比羅夫丸型も4時30運航へとスピードダウンしていた。 1918年大正7年11月第一次世界大戦終結により、大戦景気一時落ち込んだもののすぐ回復し、また4隻の自社貨物船就航もあって、1920年大正9年)度の貨物輸送量は、混乱始まった1917年大正6年)度から更に26%増の455597トンにも達した旅客輸送も、上記施策もあり、1919年大正8年)度は前年比42%増の705055名を記録した。この時期は、比羅夫丸型2隻による旅客便2往復伏木丸、敦賀丸による客貨便1往復、と自社貨物船4隻での2往復で、このほかに弘済丸、後には壱岐丸配置され年間通じての5往復が可能であった。 しかし、1920年大正9年)から始まった戦後恐慌影響で、貨物1920年大正9年)度の455597トンピーク以後3年減少続けたが、1923年大正12年)度の406459トンを底に再度増加転じたため、1924年大正13年10月には山陽丸(972.00総トン)を車両航送開始直前1925年大正14年5月末まで、1925年大正14年1月から2月までの約1ヵ月間、伊吹丸(978.28総トン)を傭船し、車両航送開始前年の1924年大正13年)年度には大戦景気ピーク時1920年大正9年)度を上回る465860トン輸送した旅客1919年大正8年)度の705055名をピーク減少転じたものの、2年後1921年大正10年)度の591465名を底にして増加転じたが、そのテンポ遅く1924年大正13年)度は701708名とピーク時実績には達していなかった。 1920年大正9年4月以降は、自社船6隻に加え、弘済丸、伏木丸、敦賀丸の9隻で運航されて来たが、1922年大正11年関釜航路新造景福丸徳寿丸就航したことで、余剰となった壱岐丸初代)(1,608.84総トン)を同年10月青函航路転属11月から就航させ、1916年大正5年4月以来6年半の長きわたって傭船された弘済丸を同年11月解傭した。 1924年大正13年5月には車載客船翔鳳丸車両航送陸上設備未完のため一般客船として就航し、これにより壱岐丸初代)同年5月稚泊航路転属のための砕氷船化工事のため転出した続いて伏木丸、敦賀丸同年10月解傭され、車載客船津軽丸松前丸飛鸞丸同年10月から12月末までに、順次一般客船として就航し比羅夫丸10月15日田村丸12月11日それぞれ係船された。

※この「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」の解説は、「比羅夫丸」の解説の一部です。
「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」を含む「比羅夫丸」の記事については、「比羅夫丸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」の関連用語

自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの比羅夫丸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS