自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化
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「比羅夫丸」の記事における「自社貨物船建造と比羅夫丸型の客船化」の解説
このため、当座の貨物輸送力不足解消を目指し、安定して運航できる自前の貨物船建造を計画した。しかし、当時の日本の鉄鋼自給能力は未だは低く、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパからの鉄材輸入途絶と、1917年(大正6年)4月のアメリカ合衆国参戦後、同年8月から同国が実施した対日鉄材輸出禁止による極端な鉄材不足の中、やむなく木造貨物船建造となり、1917年(大正6年)11月と12月に 白神丸(837.42総トン)と竜飛丸(841.01総トン)の建造が、この年から新造船建造に本格参入したばかりの横浜船渠で着手され、翌1918年(大正7年)6月と10月に就航した。両船とも載貨重量985トンと比羅夫丸型の4倍以上もあり、更に翌1919年(大正8年)4月には鉄道院の木造の石炭運搬船で、共に載貨重量1,477トンの第一快運丸(1081.00総トン)と第二快運丸(998.56総トン)も貨物船に転用して就航させ、貨物輸送力増強を図った。 これら4隻の自社貨物船就航による貨物輸送力充実を機に、1919年(大正8年)3月と4月には万成源丸と蛟龍丸の2隻の貨物船を解傭する一方、同じ4月に旅客設備のある伏木丸(1,330.28総トン)を傭船して5・6便の定期化が行われ、5月から7月までの1ヵ月半は第十二小野丸を再度傭船し、更に翌1920年(大正9年)4月には客船敦賀丸(996.51総トン)を傭船し、旅客輸送力の増強と円滑化が図られた。 白神丸・竜飛丸就航と相前後する1918年(大正7年)9月から、比羅夫丸型で運航され、従来は客貨混載であった旅客便の1便・2便・3便・4便への貨物積載が廃止され、引き続いて比羅夫丸型両船の貨物積載設備撤去と旅客定員増工事が行われた。比羅夫丸は1919年(大正8年)2月、田村丸は同年6月に後部覆甲板のウインチと貨物ハッチを撤去し、そこに甲板室を増設して2等雑居室とし、また正甲板前部貨物ハッチ上に1段式の3等雑居室を設け、比羅夫丸144名、田村丸136名の定員増加を図るとともに、正甲板後部の“蚕棚式” 3等雑居室の一部を1段式に改装し3等旅客の待遇改善も図った。これにより、比羅夫丸は従来の旅客定員より144名増しの1等22名、2等115名、3等443名の計580名となったとされるが、これでは従来の定員が436名ということになり、就航時の定員とされる1等22名、2等52名、3等254名、計328名と齟齬をきたすが詳細不明である。更に翌1920年(大正9年)2月には前部貨物艙(第2船艙)を3等船室に改装して、比羅夫丸82名、田村丸89名の定員増加を図り、比羅夫丸は662名(554名?)、田村丸は661名(553名?)の旅客定員となった。 1920年(大正9年)2月からは比羅夫丸型で運航され、接続列車の関係で最も混雑する最速の1便と2便に限り集中緩和目的で“急行料金”が徴収されたが、効果は見られず、旅客定員の多い翔鳳丸型が就航した1924年(大正13年)11月には廃止された。なお、これより前の1918年(大正7年)7月から、比羅夫丸型も4時間30分運航へとスピードダウンしていた。 1918年(大正7年)11月の第一次世界大戦終結により、大戦景気は一時落ち込んだもののすぐ回復し、また4隻の自社貨物船就航もあって、1920年(大正9年)度の貨物輸送量は、混乱の始まった1917年(大正6年)度から更に26%増の45万5597トンにも達した。旅客輸送も、上記施策もあり、1919年(大正8年)度は前年比42%増の70万5055名を記録した。この時期は、比羅夫丸型2隻による旅客便2往復、伏木丸、敦賀丸による客貨便1往復、と自社貨物船4隻での2往復で、このほかに弘済丸、後には壱岐丸も配置され、年間通じての5往復が可能であった。 しかし、1920年(大正9年)から始まった戦後恐慌の影響で、貨物は1920年(大正9年)度の45万5597トンをピークに以後3年間減少を続けたが、1923年(大正12年)度の40万6459万トンを底に再度増加に転じたため、1924年(大正13年)10月には山陽丸(972.00総トン)を車両航送開始直前の 1925年(大正14年)5月末まで、1925年(大正14年)1月から2月までの約1ヵ月間、伊吹丸(978.28総トン)を傭船し、車両航送開始前年の1924年(大正13年)年度には大戦景気のピーク時の1920年(大正9年)度を上回る46万5860トンを輸送した。 旅客も1919年(大正8年)度の70万5055名をピークに減少に転じたものの、2年後の1921年(大正10年)度の59万1465名を底にして増加に転じたが、そのテンポは遅く、1924年(大正13年)度は70万1708名とピーク時実績には達していなかった。 1920年(大正9年)4月以降は、自社船6隻に加え、弘済丸、伏木丸、敦賀丸の9隻で運航されて来たが、1922年(大正11年)関釜航路に新造船景福丸、徳寿丸が就航したことで、余剰となった壱岐丸(初代)(1,608.84総トン)を同年10月、青函航路に転属、11月から就航させ、1916年 (大正5年)4月以来6年半の長きにわたって傭船された弘済丸を同年11月解傭した。 1924年 (大正13年)5月には車載客船翔鳳丸が車両航送用陸上設備未完のため一般客船として就航し、これにより壱岐丸(初代)は同年5月、稚泊航路転属のための砕氷船化工事のため転出した。続いて伏木丸、敦賀丸も同年10月解傭され、車載客船、津軽丸、松前丸、飛鸞丸が同年10月から12月末までに、順次、一般客船として就航し、比羅夫丸は10月15日、田村丸は12月11日それぞれ係船された。
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