対馬丸1隻運航
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「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「対馬丸1隻運航」の解説
流氷のない季節は対馬丸1隻で順調に隔日運航したが、1923年(大正12年)10月18日から11月9日までの函館船渠での検査工事に際しては、壱岐丸の助勤で隔日運航を確保した。当初の計画では、11月から3月までは“冬期運航”とし、稚内発が1日と6日で9時発18時着、大泊発が3日と8日で10時発19時着の上下便とも昼航9時間、月6往復運航の予定であった。これに対し、稚泊航路開設による往来客の盛況が、減便により急減し、これによる現地経済の減速を懸念した樺太側から“夏期運航”期間延長の陳情があり、初年度の1923年(大正12年)秋から“夏期運航”は1ヵ月延長され11月末までとなり、さらに“冬期運航”の昼航便は、12月は1ヵ月に7.5往復、1月から3月までは当初予定の1ヵ月6往復となった。 この1923年(大正12年)度の旅客輸送実績は6万9619名に達し、同年度の運航回数が254往復のため、平均片道274名となり、定員439名の対馬丸1隻では既に余裕のない状況であった。 青函航路では1924年(大正13年)5月21日、待望の車載客船翔鳳丸が就航し、旅客輸送力が増強されたため、壱岐丸が同年7月1日から7月25日まで神戸製鋼所播磨造船工場で対馬丸同様の砕氷船化工事を受け、7月25日付けで稚泊航路に転属し、7月28日就航した。
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