対馬丸座礁全損事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:09 UTC 版)
「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「対馬丸座礁全損事故」の解説
1925年(大正14年)12月17日、西高東低の気圧配置で晴天の大泊を9時50分、2便として出港した対馬丸(初代)は樺太最南端の西能登呂岬沖航過約1時間後の15時20分頃から激しい吹雪で視界がきかなくなった。このため15時45分より船位測定のため、その都度停船しつつケルビン式測深儀を海底まで下して測深を行い、16時15分には水深64mで宗谷岬北西9.25海里と推定した。その後16時45分にも同様に測深し、その都度進路を左に転じつつ稚内港へ向かった。17時06、07分頃の測深では水深53mで、稚内港外野寒岬旧稚内灯台北東4海里地点と推定、17時11、12分頃には水深31mとなり、両舷錨鎖を14~16m垂れ下げたまま前進し17時15分頃両舷錨が海底に接触し、直ちに両舷投錨したが、既に船底は暗礁に乗り上げていた。旧稚内灯台北西0.7海里地点で、推定地点より約3海里西方であった。 座礁後直ちに無線電信と非常汽笛を発し、稚内無線通信所経由、事故発生を覚知した稚内桟橋から砕氷型小蒸気船利尻丸(140.28総トン)、小蒸気船牛若丸(34.30総トン)とハシケが急行したが、吹雪と強風と高波に阻まれ、利尻丸は対馬丸に接近できず、牛若丸に曳かれたハシケだけが辛うじて対馬丸に接舷でき、激浪洗う甲板から松明の灯を頼りに旅客を移乗させた。 座礁後船尾シャフトトンネルより浸水あり、排水作業に努めたが浸水量は増加し、20時50分にはボイラー室浸水により焚火困難となり、発電機が停止、船内電灯が消えてしまった。この間、19時に20名、21時に86名の旅客をハシケに移乗させ、残る82名の移乗は船内停電消灯後となったが、21時55分、旅客188名全員の救助ができた。この頃には浸水は船尾覆甲板に達し、無線電信も不通となり、22時10分、船員67名も全員退船したが、郵便物と手小荷物の陸揚げは一部に留まった。なお本件は、鉄道院/鉄道省において無線電信が人命救助に貢献した最初の例であった。 対馬丸の引き揚げ作業は事故翌日の12月18日に開始されたが、天候不良と悪潮流のため現状調査のみで中止され、その後も引き続く悪天候のため作業に着手できず、やがて船体中央部で前後に両断大破し、ほとんど水面下に没してしまった。 このため青函航路を1924年(大正13年)12月引退し、函館港で1年以上係船されていた田村丸を入渠整備のうえ、1926年(大正15年)4月16日から11月8日までと、翌1927年(昭和2年)4月7日から10月21日までの2シーズンにわたる“夏期運航”に就航させた後、田村丸は再び函館で係船された。
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