対馬事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 20:16 UTC 版)
「ポサードニク (コルベット)」の記事における「対馬事件」の解説
詳細は「ロシア軍艦対馬占領事件」を参照 1861年3月1日、リハチョーフの指示により派遣されたビリリョフ指揮下のポサードニクが対馬の尾崎浦に到着した。ビリリョフはさらに深く芋崎まで進み、かねてよりの計画通り艦の修理の名目で「海軍基地」の建造を始めた。しかしながら、地元農民は武力で以って抵抗し、これに対抗したロシア水兵が1人を撃ち殺し、数人を捕虜としたことから事態は江戸に知られることとなった。 結局、現地の対応は非友好的なものであり、根拠地の築造は一方的なものとなった。ロシア政府も懸念したとおり幕府から強い抗議を受けることとなった。8月、ビリリョフは対馬府中藩に圧力を掛け、「もしミカドの政府が反対しないのであればロシアの「海軍基地」を自身の管理下に維持する」旨の文書による合意を取り付けたが、この合意には江戸幕府からのみならずイギリス領事からも反対されるところとなった。ロシア政府は、ロシア艦を対馬より撤退させることを決定した。 いわゆる「対馬事件」はこうして解決したが、ロシア政府は問題の責任を取らせる形でリハチョーフをロシア艦隊の太平洋司令官から解任した。後任には、A・A・ポポーフ少将が就任し、ロシア艦隊太平洋長官となった。一方、ビリリョフは1863年にポサードニクの艦長を退官したが、日本近海への航海の実績を認められて大佐に昇進している。また、ポサードニクはその栄誉を讃えて対馬の湾のひとつにその名を留めている。
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