対馬事件とは? わかりやすく解説

ロシア軍艦対馬占領事件

(対馬事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/31 09:57 UTC 版)

ロシア軍艦対馬占領事件(ロシアぐんかんつしませんりょうじけん)は、幕末ロシア帝国軍艦対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。




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対馬事件

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ポサードニク (コルベット)」の記事における「対馬事件」の解説

詳細は「ロシア軍艦対馬占領事件」を参照 1861年3月1日、リハチョーフの指示により派遣されたビリリョフ指揮下のポサードニク対馬尾崎浦に到着した。ビリリョフはさらに深く崎まで進みかねてより計画通り艦の修理名目で「海軍基地」の建造始めたしかしながら地元農民武力以って抵抗し、これに対抗したロシア水兵1人撃ち殺し数人捕虜としたことから事態江戸知られることとなった結局現地の対応は非友好的なものであり、根拠地築造一方的なものとなったロシア政府懸念したとおり幕府から強い抗議を受けることとなった8月、ビリリョフは対馬府中藩圧力を掛け、「もしミカド政府反対しないのであればロシアの「海軍基地」を自身管理下に維持する」旨の文書による合意取り付けたが、この合意には江戸幕府からのみならずイギリス領事からも反対されるところとなったロシア政府は、ロシア艦を対馬より撤退させることを決定したいわゆる「対馬事件」はこうして解決したが、ロシア政府問題責任取らせる形でリハチョーフをロシア艦隊太平洋司令官から解任した。後任には、A・Aポポーフ少将就任しロシア艦隊太平洋長官となった一方、ビリリョフは1863年ポサードニク艦長退官したが、日本近海への航海実績認められ大佐昇進している。また、ポサードニクはその栄誉を讃えて対馬の湾のひとつにその名を留めている。

※この「対馬事件」の解説は、「ポサードニク (コルベット)」の解説の一部です。
「対馬事件」を含む「ポサードニク (コルベット)」の記事については、「ポサードニク (コルベット)」の概要を参照ください。

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