宗氏転封計画とポサドニック号事件とは? わかりやすく解説

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宗氏転封計画とポサドニック号事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:48 UTC 版)

対馬府中藩」の記事における「宗氏転封計画とポサドニック号事件」の解説

江戸時代末葉になると、木綿朝鮮人参国産化実現したこともあり、肝心朝鮮との貿易がふるわなくなった島民の生活困窮きわめたまた、極度財政難から、対馬藩幕府訴えて朝鮮通信使接待費用貿易不振援護金の下付貸付受けた。さらに、周辺海域欧米の船が出没するようになり、1858年安政5年)、この地の守り重要視した幕府は、朝鮮貿易幕府直轄とし、宗氏河内国10万石(20万石説もあり)で転封する計画立て家臣なかにも移封唱えるものがあった。しかし、宗氏中世以来対馬領主という誇りがあり、家臣多くもこの地に根ざした生活を保っていたため、宗氏転封計画実行には至らなかった。 1861年万延2年)、ロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾投錨し対抗したイギリス軍艦も測量名目同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件起こった。ポサドニック号は崎を占拠し兵舎工場練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して第15代藩主宗義和土地貸与求めた対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行小栗忠順派遣され7月イギリス公使オールコック干渉もあってロシア軍艦が退去した。これを「対馬事件」あるいは「ポサドニック号事件」と呼んでいる。崎には、ロシア人掘った井戸残っている。 詳細は「ロシア軍艦対馬占領事件」を参照

※この「宗氏転封計画とポサドニック号事件」の解説は、「対馬府中藩」の解説の一部です。
「宗氏転封計画とポサドニック号事件」を含む「対馬府中藩」の記事については、「対馬府中藩」の概要を参照ください。

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