宗氏転封計画とポサドニック号事件
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「対馬府中藩」の記事における「宗氏転封計画とポサドニック号事件」の解説
江戸時代も末葉になると、木綿や朝鮮人参の国産化が実現したこともあり、肝心の朝鮮との貿易がふるわなくなった。島民の生活は困窮をきわめた。また、極度の財政難から、対馬藩は幕府に訴えて朝鮮通信使接待の費用や貿易不振の援護金の下付や貸付を受けた。さらに、周辺海域に欧米の船が出没するようになり、1858年(安政5年)、この地の守りを重要視した幕府は、朝鮮貿易を幕府直轄とし、宗氏を河内国に10万石(20万石説もあり)で転封する計画を立て、家臣のなかにも移封を唱えるものがあった。しかし、宗氏は中世以来の対馬の領主という誇りがあり、家臣の多くもこの地に根ざした生活を保っていたため、宗氏転封計画は実行には至らなかった。 1861年(万延2年)、ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して第15代藩主宗義和に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去した。これを「対馬事件」あるいは「ポサドニック号事件」と呼んでいる。芋崎には、ロシア人の掘った井戸が残っている。 詳細は「ロシア軍艦対馬占領事件」を参照
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