第8軍の指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 20:46 UTC 版)
1941年11月、今では新編成の第8軍(英語版)の傘下であったLRDGは、クフラからシワ(リビア中央部)へと移った。各巡視隊はジェベル・アフダルの南の砂漠路を見張り、増援や撤退の兆しを報告する任務を受けていた。「R1」巡視隊は、トブルク西方の飛行場を襲撃するため前線の後方に落下傘降下したデイヴィッド・スターリング大尉と30名を迎えに行くこととなった。21名のみが合流地点へ到着してイギリス軍の前線へと戻り、後に特殊空挺部隊(SAS)の中核となる。LRDGに割り当てられた他の任務の一つが、SASの部隊を敵の前線背後へ運ぶことであった。1942年にSASが独自の輸送手段を支給されるまで、これが続けられた。11月の初め、「T2」巡視隊は4名のイギリス軍士官をゲベルへ移動させ、3週間後に当地へ戻って彼らを迎えることとなった。士官たちはロンメル将軍の殺害を意図して計画された、フリッパー作戦のための先遣地上隊であった。 11月24日、クルセーダー作戦を支援するため、LRDGは枢軸軍の後方地域を攻撃する命令を受けた。既に巡視活動に出ていた「Y1」「Y2」巡視隊がメチリ(英語版)、デルナ、ガザラ(英語版)地区の目標を攻撃した。「Y1」は輸送車両置き場の15台に損害を与え、「Y2」は小規模な要塞を奪取して約20名のイタリア兵を捕虜とした。「S2」「R2」巡視隊はベンガジ、バルカ、マラワ(英語版)地区の目標を攻撃し、9台の車両に対する待ち伏せ攻撃を行った。「G1」「G2」巡視隊はアジュダービヤー近傍の幹線道路を割り当てられ、「G1」はそこで路上往来に2度の攻撃を行い、数台の車両を銃撃した。枢軸軍部隊がキレナイカから撤退すると、LRDGはアジュダービヤーから約140マイル(230キロ)南南東のヤロ・オアシス(英語版)の根拠地へ移動した。 1941年の最後の作戦は12月に行われ、LRDGは枢軸軍の飛行場への襲撃を行うSASの行き帰りを輸送し、彼らはスルト(2度)、エル・アゲイラ(英語版)、アジュダービヤー、ノファリヤ(英語版)、タミトの飛行場を攻撃して151機の飛行機と30台の車両を破壊した。シルテへの2度目の襲撃で、SASは停められた飛行機を攻撃する新方法を考案した。彼らはLRDGのトラックを飛行機の列の間に走らせ、次いでそれらは機関銃と手榴弾による攻撃を受けた。これに先立って、密かに飛行場へ侵入し飛行機と車輛へルイス爆弾(英語版)を仕掛ける策が施されており、爆弾が炸裂する前に場を離れていたというもので、この攻撃が大いに成功を収めたことから、飛行場への攻撃に際して好まれる手段となった。
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