第8軍団司令官、ノルマンディー上陸作戦
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「リチャード・オコーナー」の記事における「第8軍団司令官、ノルマンディー上陸作戦」の解説
詳細は「ノルマンディー上陸作戦」を参照 1944年1月21日、オコーナーは第8軍団(英語版)司令官となった。この軍団は、近衛機甲師団(英語版)や第11機甲師団(英語版)、第15(スコットランド)歩兵師団(英語版)に加え、第6近衛戦車旅団(英語版)や第8王立砲兵軍集団(英語版)、第2王室騎兵連隊(英語版)の一部から成り立っていた。 6月11日、オコーナーと第8軍団の主要部隊はノルマンディーのカーン周辺地域に到着した。ここで後に激戦(英語版)を繰り広げることとなる。オコーナーに与えられた最初の任務(第43(ウェセックス)歩兵師団(英語版)も指揮下)はエプソム作戦(英語版)の準備段階だった。第3カナダ歩兵師団(英語版)が築いた橋頭保から包囲突破し、オドン川とオルヌ川を渡河してブレトヴィル=シュル=レーズ(英語版)北東の高地を確保し、南部からカーンの分断を図った。包囲突破と渡河は速やかに達成された。オコーナーの部隊指揮官と友人であるモントゴメリーは、この成功を祝福した。しかしカーンを分断するのは難しく、第8軍団はオルヌ川まで押し戻された。オコーナーは第43(ウェセックス)歩兵師団とともに木星作戦(英語版)の最中、橋頭保を再建しようとしたがほぼ成功せず終わっている。戦術的目標は達成されなかったが、カーンにドイツの予備装甲部隊を引き付けたことで戦略上の利益を得ることが出来たため、モントゴメリーは作戦自体に満足していた。 予備部隊が引き上げた後である7月12日、第8軍団はグッドウッド作戦に向けて動き出した。軍団からは歩兵師団が外れたが、代わりに第7機甲師団(英語版)が加わっている。グッドウッド作戦は7月18日に、第9航空軍(英語版)による大規模空襲から発動された。7月20日には右翼軍がブラス(フランス語版)とユベール=フォリ(英語版)を、左翼軍がフォントネ=シュル=オルヌ(英語版)を、中央軍がブルゲビュ(英語版)をそれぞれ占領した。しかし、地上軍は雨により足止めを食らい、戦場は泥沼と化した。主要な目標地点は未だ占領できず、とりわけブルゲビュが包囲突破の鍵となった。 軍団は戦闘前の状態へ立て直され、さらに第3歩兵師団(英語版)を抱えた状態でカーン南西部へ移動し、ブルーコート作戦(英語版)に加わった。第15(スコットランド)師団はヴィールの西部などを攻撃し、アメリカ陸軍のコブラ作戦を支援した。急速な進軍のため最初の2日間は激しい戦闘を引き起こし、双方に大きな損害を出している。 フランスからドイツ軍を追放する準備が連合国内で整ったが、オコーナーは第8軍団がその作戦には参加しないことを知った。第8軍団は予備役に回され、その輸送部隊は第30軍団(英語版)と第12軍団(英語版)の供給に用いられることとなった。彼の指揮は、近衛機甲師団と第11機甲師団が第30軍団に、第15(スコットランド)師団が第12軍団へ移管されたことで縮小された。予備役にいる間、オコーナーはモントゴメリーやホバートなどと積極的に連絡を取り合い、装甲車の改良から戦闘ストレス反応まで様々な問題の提言を行っている。彼の提言はいくつか採用され、戦車での突破が困難な垣根のためにラム(英語版)と呼ばれる部品を取り付けることなどに活かされた。
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