ケンタッキーの開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 08:37 UTC 版)
「ブーンズボロ包囲戦」の記事における「ケンタッキーの開拓」の解説
1774年、ダンモアの戦争と呼ばれる行動で、イギリス領バージニア植民地は、オハイオ領土の主にショーニー族からなるインディアン部族連合を破った。この戦争を終わらせる条約で、オハイオ川を境界にその北をショーニー族の土地、南をバージニア領地(現在はウェストバージニア州とケンタッキー州の大半)と定めた。しかし、インディアン部族は統合されていなかったので、多くの指導者はその主要な猟場を譲ることになるこの条約を拘束力あるものと認知しなかった。 1775年、ノースカロライナ植民地のリチャード・ヘンダーソンが、チェロキー族からケンタッキーの広大な土地を購入した。チェロキー族もケンタッキーを猟場にしていた。ヘンダーソンはトランシルベニアという植民地を造るつもりだった。ヘンダーソンに雇われたダニエル・ブーンがケンタッキー中部に通じる荒野の道を切り開き、ブーン砦を建設して、そこをブーンズボロと名付けた。ブーンズボロなどトランシルベニアの土地は、1776年にバージニアに属するようになった。東部から来た数家族が間もなくそこに入植した。北にいたショーニー族はアメリカ人がケンタッキーに入ってくることに不満であり、間歇的にブーンズボロを攻撃した。 一方、アメリカ東部ではアメリカ独立戦争が始まった。1777年、イギリス当局はインディアン戦士を徴募して武装させ、ケンタッキーの開拓地を襲撃させることで、アメリカ植民地人との新たな戦線を広げた。デトロイトに駐屯していたイギリス領カナダの副総督ヘンリー・ハミルトンは、ショーニー族のブラックフィッシュ酋長などの指導者達が進んでイギリス軍と同盟する意志があることが分かった。ショーニー族達はケンタッキーからアメリカ人を追い出し、その狩猟場を再び領有できることを望んでいた。襲撃が激しくなってくると、ブーンズボロの様な要塞化された開拓地から彷徨い出たアメリカ人が殺されたり捕まったりすることが多くなった。1777年、インディアンはデトロイトのハミルトンに、129の頭皮と77人の捕虜を届けた。
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