サックビル砦の包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 05:50 UTC 版)
「イリノイ方面作戦」の記事における「サックビル砦の包囲」の解説
クラーク隊は2月23日日没時にビンセンズに行軍し、2つに分かれて町に入った。1隊はクラーク自身が、もう1隊はボーマンが指揮した。土地が盛り上がって部隊の姿を隠し、旗だけが見えるような地勢の利点を生かし、部隊を操って1,000名の部隊が近付いているような印象を与えさせた。クラークとボーマンが町を制圧している間に、分遣隊がサックビル砦に送られて発砲を始めた。その濡れた弾薬は地元住民のフランソワ・ブスロンの働きで交換されていた。大騒ぎになっていたにも拘わらず、窓を通ってきた銃弾で部隊兵の1人が傷つくまで、ハミルトンは砦が攻撃されていることに気付かなかった。 クラーク隊は砦の門前に200ヤード (180 m) の塹壕を築いた。兵士が砦に発砲する中で、小さな分隊が壁から30ヤード (27 m) の距離に這い進み、近距離から射撃した。イギリス軍は大砲を放って町の建物数軒を破壊したが、包囲部隊にはほとんど損傷を与えられなかった。クラーク隊の兵士は砦の除き窓に向かって発砲し砲手の何人かを殺すか負傷させることで、大砲を黙らせた。一方クラークは地元民からの援助も受けていた。住民はイギリス軍には見つからないように隠していた弾薬を渡した。ピアンクショー族酋長ヤング・タバコは部族の100名に砦攻撃を援助させると申し出た。クラークは酋長の申し出を断った。これは暗闇のために部隊兵が友好的なピアンクショー族やキカプー族を、地域の敵対的な部族と誤って攻撃することを怖れたからだった。 2月24日午前9時頃、クラークは伝令にハミルトンの降伏を求める文書を持たせた。ハミルトンが拒絶し、交戦はその後2時間ほど続いたが、ハミルトンが捕虜にしていたヘルム大尉を派遣して降伏の条件を提案した。クラークはヘルムを送り返し、30分以内の無条件降伏、さもなければ砦を急襲すると伝えさせた。ヘルムは時間内に戻り、ハミルトンが3日間の休戦を提案していると伝えた。これも拒否したクラークは村の教会でハミルトンと会見することに合意した。 教会での会見前に、クラークの経歴で最も議論を呼んだ事件が起こった。クラーク隊がビンセンズを再占領したことを知らずに、インディアンの戦士隊とフランス系カナダ人民兵が待ちに入ってきた。小競り合いが起こり、クラーク隊は6名を捕虜にした。捕虜のうち2人はフランス人であり、住民やクラークの追随者達の1人の要請で釈放されたクラークは残る4人のインディアン捕虜を見せしめにすることにした。彼等は砦の前面に座らされ、その後トマホークで殺された。死体は頭皮を剥がれ、川に放り込まれた。ハミルトンはこの処刑の様子を目撃しなかったが、後にクラークがその手にあったインディアン1人以上を殺したと記した。ハミルトンは戦犯としてアメリカに投獄され、その捕獲者を悪く言いたい動機があったので、誇大に語っていると考える歴史家がいる。クラークは処刑者の1人だという主張はしていないが、ケンタッキーの開拓者を殺されたことに対する正当な報復であると考え、インディアンを脅してその襲撃を止めさせる手段と考えて、弁解無しに殺したことを記している。 教会ではクラークおよびボーマンがハミルトンと会見し、降伏条件を決めた。2月25日午前10時、ハミルトンの守備兵79名が砦から出てきた。クラークの兵士は砦の上にアメリカ国旗を掲げ、砦をパトリック・ヘンリー砦と改名した。クラークの兵士の一部と地元民兵がウォバッシュ川上流に派遣されて物資輸送隊を捕獲し、イギリス軍援軍とデトロイトにおけるハミルトンの判事であるフィリップ・デジーンも捕獲した。クラークはハミルトン、その士官7名およびその他18名の捕虜をウィリアムズバーグに送った。ハミルトンに付いてきていたフランス系カナダ人は中立の誓いを立てた後に釈放された。
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