ケンタッキー・カーネルズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:57 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2020年1月)
( |
ケンタッキー・カーネルズ(Kentucky Colonels)は、アメリカ合衆国に存在したABAのバスケットボールチームである。
似た言葉でケンタッキー・カーネルという言葉があり、ケンタッキーフライドチキン創業者のカーネル・サンダースなどケンタッキー州に貢献した人物に送られる名誉大佐という称号がある。
ケンタッキー・カーネルズはABAのメンバーとして9年間戦った。チームはリーグ史上最も勝利したがNBAには加わらなかった。チームはケンタッキー州のルイビルを本拠地とした。
平均的な力のチームだったがカーネルズはケンタッキー州出身のスター選手ルイ・ダンピアとダレル・キャリアーを獲得した。彼ら2人はその時代を代表した長距離砲でABAの3ポインシュートルールによって大いにチームを助けた。キャリアーは5シーズンプレイした。そしてダンピアはカーネルズ一筋でプレイした。
1970-71シーズンにダン・イッセルが加入した。イッセルの加入によってカーネルズは全米により知られるようになった。彼はレギュラーシーズン中は平均的な記録だったにもかかわらずABAチャンピオンシップで大活躍したが、ユタ・スターズに3勝4敗で敗れた。
1971年はビッグマンのアーティス・ギルモアと契約しさらにチームは良くなると考えられた。ギルモアと契約したことでカーネルズは数年間強豪となった。ギルモアのルーキーシーズン、チームはリーグ史上最高の68勝したがプレイオフ1回戦でニューヨーク・ネッツに大番狂わせを食らった。1972-73シーズンも再びチャンピオンシップに戻ってきたがインディアナ・ペイサーズとのタフなシリーズを3勝4敗で落とした。
シーズン終了後、フランチャイズがシンシナティに移転する直前まで行ったがケンタッキー・フライドチキンのオーナーとなるジョン・ブラウンによってチームが購入された。ブラウンはチームへの関心を増すためにABAの人気コーチだったベイブ・マッカーシーを採用した。しかしプレイオフ2回戦でネッツに敗れてブラウンはマッカーシーを解雇した。
1974-75年シーズン、ブラウンオーナーはNBAでアシスタントコーチをしたことのあるヒュービー・ブラウン(血縁関係ではない)を採用しチャンピオンシップを獲得した。レギュラーシーズンを23勝3敗でプレイオフに進出、にっくき相手ペイサーズを4勝1敗で破りABAチャンピオンになった。最後の試合、ギルモアは29得点、そして驚くべきことに31リバウンドを記録した。
1975年の栄光はブラウンオーナーがダン・イッセルをボルチモアに財政的な理由で放出したことで終わった。オールスター選手のカルドウェル・ジョーンズが代わりに加入したがチームに溶け込まなかった。ジョーンズはシーズン半ばに若いモーリス・ルーカスに代わられた。ヒュービーコーチはチーム内に競争を持ち込んだが、彼らはプレイオフでデンバー・ナゲッツに3勝4敗で敗れた。
カーネルズはリーグで最もタレント豊富なチームの1つでファンも多かったがABAがNBAに吸収される際、リーグを移ることなく解散した。
カーネルズの選手は分配ドラフトにかかり、ギルモアはシカゴ・ブルズに、モーリス・ルーカスはポートランド・トレイルブレイザーズへ、そしてダンピアはサンアントニオ・スパーズのシックススマンとしてキャリアを終えた。 ヘッドコーチのヒュービー・ブラウンはアトランタ・ホークスで解雇されるまで5年間指揮を取った。
2004年、新しいABAのチーム、カーネルズがルイビルに戻って来た。ロースターには何人かのケンタッキー大学出身の選手を含んでいた。チームのフロントには、元NBAのベテランのトゥリー・ロリンズがゼネラルマネージャーになった。2勝5敗でスタートした後、ヘッドコーチが交代しアシスタントコーチが率いたチームは19勝12敗でシーズンを終了してプレイオフ2回戦でABAチャンピオンになったアーカンソー・リムロッカーズに敗れた。Antwain Barbour1 は2004-05シーズンのオールABAに選ばれヘッドコーチの Kevin Keathley はABA最優秀コーチに選ばれた。2006年カーネルズは2勝14敗に終わった。
ケンタッキー・カーネルズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 07:56 UTC 版)
「ダン・イッセル」の記事における「ケンタッキー・カーネルズ」の解説
大学卒業後の1970年、地元ケンタッキー州のルイビルに本拠地を置くプロリーグABAのチーム、ケンタッキー・カーネルズに1巡目指名を受けて入団(同時にNBAのデトロイト・ピストンズからも1970年のNBAドラフトで8巡目122位指名を受けている)。イッセルは1年目からリーグを代表するセンターとして活躍。平均29.9得点13.2リバウンドをあげて得点王に輝くと共にチャーリー・スコットと新人王を共同受賞、オールABA2ndチーム、オールスターゲームにも選ばれた。チーム成績は44勝40敗と平凡なものだったが、プレーオフでは勝ち抜き、チーム史上初のファイナル進出を果たしている(ユタ・スターズの前に2勝4敗で敗退)。2年目の1971-72シーズンには平均30.6得点(リーグ3位)11.2リバウンドをあげてシーズン通算2,538得点はABA記録となり、オールABA1stチームに選出。オールスターゲームでは21得点9リバウンドをあげてオールスターMVPを受賞している。またこの年に新人アーティス・ギルモアがカーネルズに入団。218cmのギルモアの加入でイッセルはパワーフォワードにコンバートされ、イッセルとギルモアという強力なインサイドコンビが完成し、カーネルズはリーグを席巻。このシーズンにカーネルズが記録した68勝16敗はABA史上最高勝率となり、ギルモアは前年のイッセルに続いて新人王を受賞した。リーグ屈指の強豪となったカーネルズだがプレーオフでは結果が残せず、68勝をあげた1971-72シーズンは1回戦でリック・バリー率いるニューヨーク・ネッツの前にまさかの敗退、56勝をあげた1972-73シーズンは2度目のファイナル進出を果たすが、今度はジョージ・マクギニス率いるインディアナ・ペイサーズの前に3勝4敗で敗れている。イッセルはよりチームメートと得点機会を分け合うスタイルに変化していったため平均30.6得点をあげた1971-72シーズンを頂点に個人成績に低下が見られるも、オールスターやオールABAチームには毎年選出され続ける、依然としてリーグ有数のビッグマンだった。1974-75シーズンには初の平均20得点割れとなる17.7得点8.6リバウンドとなったが、カーネルズは58勝26敗と好成績を維持し続け、そしてプレーオフでは3度目となるファイナルに進出。インディアナ・ペイサーズに雪辱して4勝1敗でファイナルを制し、初優勝を果たした。1975-76シーズンを前にイッセルはトム・オーエンズとの交換でボルティモア・クロウズにトレードされるが、クロウズは新シーズンを前にして解散・消滅してしまったため、イッセルはさらにデンバー・ナゲッツに移籍して新シーズンを迎えた。
※この「ケンタッキー・カーネルズ」の解説は、「ダン・イッセル」の解説の一部です。
「ケンタッキー・カーネルズ」を含む「ダン・イッセル」の記事については、「ダン・イッセル」の概要を参照ください。
- ケンタッキー・カーネルズのページへのリンク