ケンタッキー、テネシーおよび北部ミシシッピ (1862年6月-1863年1月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「ケンタッキー、テネシーおよび北部ミシシッピ (1862年6月-1863年1月)」の解説
ハレックがコリンスの後はほとんど成果が無かった一方で、健康上の理由で退いたボーリガードの後任ブラクストン・ブラッグはコリンスの真南トゥーペロにテネシー軍56,000名を集めた。しかし、ブラッグはテューペロから直接北に進軍することは実際的でないと判断した。スターリング・プライスとアール・ヴァン・ドーンの2人の少将にグラントの注意を引き付けさせたうえで、35,000名の部隊を鉄道でモービル経由でチャタヌーガに送った。ブラッグは7月21日までテューペロを離れなかったが、ビューエルよりも前にチャタヌーガに到着することができた。ブラッグの全体作戦はエドマンド・カービー・スミス少将の軍と連携してビューエルの通信線を遮断し、ビューエル軍を打ち破ったうえで、グラント軍を倒すために戻るというものだった。 カービー・スミスは8月14日にノックスビルを出発してケンタッキー州侵攻を開始し、カンバーランド峡谷にいた北軍を追い、リッチモンドの戦いで小さな北軍部隊を破った後に、8月30日、ケンタッキー州のレキシントンに到着した。ブラッグはスミスがレキシントンに到着する直前にチャタヌーガから出発した。ビューエルはナッシュビルから北のボウリング・グリーンに向かっていた。しかし、ブラッグは素早く動いて9月14日までにビューエルのルイビルからの補給線に入り込んだ。ブラッグはビューエル軍よりも劣勢だったためにこの機会を生かすことを躊躇した。もしスミス軍と合流できれば勢力的に同等となるはずだったが、スミスの軍は別のことを考えていた。その支援が無くてもブラッグはルイビルを占領できると信じていた。 ビューエルは政府から攻撃的な行動を取るよう圧力が掛かっており、解任される可能性があった(この作戦の開始時点で部下のジョージ・ヘンリー・トーマスが指揮権を譲り受けることに個人的に躊躇っていたことでまだ交替はなかった)。ビューエル軍がペリービルに近付くと、そこにいる南軍の部隊に対峙することに集中させ始めた。ブラッグは、ケンタッキー州の南部側知事がフランクフォートで行う宣誓式に出席することにしており、当初軍隊と共にはいなかった。10月8日、水源の確保をめぐったペリービルの戦いが始まり、戦闘が激しくなると、ブラッグのミシシッピ軍はビューエルのオハイオ軍の1軍団に対する攻撃で戦術的な優位を取った。その夜、ブラッグはビューエルの全軍と向かい合っていることを認識し、ハロッズバーグまでの撤退を命じた。ブラッグ軍は10月10日にスミスの軍と合流した。ブラッグは戦力が上がったにも拘わらず、再度攻勢を取ろうとはしなかった。ビューエルも同じくらい受動的であった。ブラッグはカンバーランド峡谷を撤退し、チャタヌーガを経由してマーフリーズバラまで戻った。 ビューエルはケンタッキー州でブラッグの脅威に直面していたが、ミシシッピ州北部での南軍の作戦は、ビックスバーグ方面作戦の準備を進めているグラント軍がビューエル軍の応援に付くことを阻止しようということだった。ハレックがワシントンD.C.に行ってしまったので、グラントは西テネシー方面軍の指揮官として何の干渉も受けなかった。9月14日、南軍のスターリング・プライス少将がその西部軍をコリンスより東に20マイル (32 km)のイウカに移動させた。プライスはアール・ヴァン・ドーンの西部軍と合流してグラントに対する作戦を実行しようと考えていた。しかし、グラントはウィリアム・ローズクランズとエドワード・オード両少将に軍隊を任せてイウカでプライスとヴァン・ドーンを攻撃させた。ローズクランズは9月19日のイウカの戦いで小さな勝利を挙げたが、二重に包囲しようとしていた自軍の連携がうまくいかず、プライスを捕まえ損なった。 プライスとヴァン・ドーンはコリンスに集まっている北軍を叩き西テネシーあるいは中央テネシーに進もうと決断した。10月3日の第二次コリンスの戦いで、防御を固めた北軍を攻撃したが、大きな損失を受けて撃退された。南軍は北西に撤退し、ローズクランズ軍が疲れていたので追撃を免れたが、その中部テネシーを脅かしブラッグを支援しようという目的は潰えた。 冬季に入ると北軍政府はビューエルをローズクランズにすげ替えた。ローズクランズはナッシュビルで補充と訓練を行い、クリスマス直後にマーフリーズバラのブラッグ軍に対抗するために動いた。12月31日、ストーンズリバーの戦いでブラッグはローズクランズ軍を急襲し北軍をテネシー川に面する小さな陣地まで押し返した。しかし、1863年1月2日、再度ローズクランズ軍を襲う試みは徹底的に反撃され、南東のタラホーマまで撤退した。ストーンズリバーの戦いでの損失は両軍ともに約12,000名で、その勢力に比して大きなものとなり、西部戦線でも最も流血の多いものになった。この作戦の終了とともに、ブラッグ軍のケンタッキー州に対する脅威が無くなり、ブラッグは中央テネシーの支配を実質的に断念した。
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