ケンタッキー、テネシーおよび北部ミシシッピとは? わかりやすく解説

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ケンタッキー、テネシーおよび北部ミシシッピ (1862年6月-1863年1月)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:18 UTC 版)

西部戦線 (南北戦争)」の記事における「ケンタッキー、テネシーおよび北部ミシシッピ (1862年6月-1863年1月)」の解説

ハレックがコリンスの後はほとんど成果無かった一方で、健康上の理由退いたボーリガード後任ブラクストン・ブラッグはコリンスの真南トゥーペロにテネシー軍56,000名を集めた。しかし、ブラッグはテューペロから直接北に進軍することは実際的でない判断したスターリング・プライスアール・ヴァン・ドーン2人少将グラント注意を引き付けさせたうえで、35,000名の部隊鉄道モービル経由チャタヌーガ送ったブラッグ7月21日までテューペロを離れなかったが、ビューエルよりも前にチャタヌーガ到着することができた。ブラッグ全体作戦エドマンド・カービー・スミス少将の軍と連携してビューエル通信線遮断しビューエル軍を打ち破ったうえで、グラント軍を倒すために戻るというものだった。 カービー・スミスは8月14日ノックスビル出発してケンタッキー州侵攻開始しカンバーランド峡谷にいた北軍追いリッチモンドの戦い小さな北軍部隊破った後に、8月30日ケンタッキー州レキシントン到着したブラッグスミスレキシントン到着する直前チャタヌーガから出発したビューエルナッシュビルから北のボウリング・グリーン向かっていた。しかし、ブラッグ素早く動いて9月14日までにビューエルルイビルからの補給線入り込んだブラッグビューエル軍よりも劣勢だったためにこの機会生かすことを躊躇した。もしスミス軍と合流できれば勢力的同等となるはずだったが、スミスの軍は別のことを考えていた。その支援無くてブラッグルイビル占領できると信じていた。 ビューエル政府から攻撃的な行動を取るよう圧力掛かっており、解任され可能性があった(この作戦の開始時点部下ジョージ・ヘンリー・トーマス指揮権譲り受けることに個人的に躊躇っていたことでまだ交替はなかった)。ビューエル軍がペリービルに近付くと、そこにいる南軍部隊対峙することに集中させ始めたブラッグは、ケンタッキー州南部知事フランクフォートで行う宣誓式に出席することにしており、当初軍隊と共にはいなかった。10月8日水源確保めぐったペリービルの戦い始まり戦闘激しくなると、ブラッグミシシッピ軍ビューエルオハイオ軍1軍団に対す攻撃戦術的な優位取ったその夜ブラッグビューエル全軍向かい合っていることを認識し、ハロッズバーグまでの撤退命じたブラッグ軍は10月10日スミスの軍と合流したブラッグ戦力上がったにも拘わらず再度攻勢取ろうとはしなかった。ビューエル同じくらい受動的であったブラッグカンバーランド峡谷撤退しチャタヌーガ経由してマーフリーズバラまで戻ったビューエルケンタッキー州ブラッグ脅威直面していたが、ミシシッピ州北部での南軍作戦は、ビックスバーグ方面作戦準備進めているグラント軍がビューエル軍の応援に付くことを阻止しようということだった。ハレックワシントンD.C.行ってしまったので、グラントは西テネシー方面軍指揮官として何の干渉も受けなかった。9月14日南軍スターリング・プライス少将がその西部軍をコリンスより東に20マイル (32 km)のイウカ移動させた。プライスアール・ヴァン・ドーン西部軍合流してグラント対す作戦実行しよう考えていた。しかし、グラントウィリアム・ローズクランズエドワード・オード少将軍隊任せてイウカプライスとヴァン・ドーンを攻撃させた。ローズクランズは9月19日イウカの戦い小さな勝利を挙げたが、二重包囲しようとしていた自軍連携うまくいかず、プライス捕まえ損なったプライスとヴァン・ドーンはコリンスに集まっている北軍叩き西テネシーあるいは中央テネシー進もう決断した10月3日第二次コリンスの戦いで、防御固めた北軍攻撃したが、大きな損失受けて撃退された。南軍北西撤退し、ローズクランズ軍が疲れていたので追撃免れたが、その中部テネシー脅かしブラッグ支援しようという目的潰えた冬季に入ると北軍政府ビューエルをローズクランズにすげ替えた。ローズクランズはナッシュビル補充訓練行いクリスマス直後にマーフリーズバラのブラッグ軍に対抗するために動いた12月31日ストーンズリバーの戦いブラッグはローズクランズ軍を急襲し北軍テネシー川面する小さな陣地まで押し返した。しかし、1863年1月2日再度ローズクランズ軍を襲う試み徹底的に反撃され、南東のタラホーマまで撤退したストーンズリバーの戦いでの損失両軍ともに約12,000名で、その勢力比して大きなものとなり、西部戦線でも最も流血の多いものになった。この作戦の終了とともにブラッグ軍のケンタッキー州対す脅威無くなりブラッグ中央テネシー支配実質的に断念した

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