南部戦線と捕虜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:43 UTC 版)
「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「南部戦線と捕虜」の解説
「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」も参照 1779年3月、ワシントンからまだバージニアで休暇中だったスコットに手紙が届き、バージニアで志願兵を募り、5月1日にミドルブルックでワシントン軍に合流するよう命じてきた。スコットは人と物資の手配が困難だったので帰還が遅れた。この遅れの間にワシントンは志願兵を連れてサウスカロライナに向かい、そこで民兵隊の指揮に当たっているベンジャミン・リンカーンの部隊に合流するよう命じてきた。イギリス軍がジョージアに向かっているという報告があり、ワシントンは敵が南からの侵略を準備していると確信した。 ワシントンの命令書が届けられてから直ぐに、ジョージ・コリアーとエドワード・マシューが指揮するイギリス軍襲撃部隊がバージニアに到着し、サウスカロライナに向かう援軍のために南に送ろうとしていた物資を捕獲し破壊した。スコットに与えられた命令は再度変更された。バージニア議会はスコットに直ちにコリアーとマシューの襲撃に備えるよう命令してきた。コリアーとマシューの意図が物資を襲撃することであり、侵略の意図はないということが議会とワシントンの双方にとって明らかになったとき、バージニアでは地元民兵隊だけで十分に地元の利益を守ることができると判断し、スコットは南部を補強するための徴兵を続けることになった。議会はこの脅威にスコットが素早く対応したことに応えて、馬、火器、および500ポンド・スターリングをスコットに贈呈した。 州議会で徴兵が推進されたにも拘わらず、バージニアにおけるスコットの徴兵作業は困難なままだった。最後は、ワシントンの北部方面軍からスコットに送られた兵士をサウスカロライナのリンカーンに回すことで、その役目を果たした。バージニアではエイブラハム・ビュフォードの連隊を保持しているだけになった。1780年2月、ウィリアム・ウッドフォードの指揮でワシントンから派遣された約750名が、バージニア州ピーターズバーグにあったスコットの宿営地に到着した。バージニア当局は、ヘンリー・クリントン将軍の指揮で南に向かったイギリス軍が北のバージニアに戻ってくる可能性を怖れ、クリントンの標的がチャールストンのリンカーン陣地にあることがはっきりするまでスコットとウッドフォードを拘束していた。 1780年3月30日、スコットはチャールストンに到着した。これはクリントンが市を包囲しているときだった。1780年5月12日、チャールストンが落ちたときにスコットも捕虜になり、戦争捕虜としてチャールストンに近いハドレルズ・ポイントで拘束された。捕虜ではあったが、半径6マイル (10 km) 以内で動き回る自由を与えられ、バージニアの知人とは文通することを認められた。1780年11月13日にウィリアム・ウッドフォードが死亡し、ハドレルズ・ポイントに拘束されるバージニア兵の福祉についてスコットが責任を持つようになった。1781年1月30日に健康が優れないことを理由に仮釈放を要求し、3月下旬にチャールズ・コーンウォリスがその要求を認めた。.1782年7月、スコットはイギリスのロードン卿との捕虜交換で釈放となった。ワシントンからは現役任務に戻るよう伝えられ、バージニアでピーター・ミューレンバーグ将軍の徴兵作業を支援し、その後にナサニエル・グリーン将軍のところに出頭するよう命令してきた。しかし、グリーンからはスコットを指揮下に置かないことを伝え、バージニアでミューレンバーグと共に留まるよう要請してきた。スコットが徴兵できた数少ない兵士はウィンチェスターの補給廠に送られた。1783年3月、アメリカ合衆国とイギリスの間で和平のための主要条項が調印されたとき、徴兵活動も停止された。スコットは1783年9月30日付けで名誉少将に昇進したが、それは大陸軍から退役する直前のことだった。戦後はシンシナティ協会の設立メンバーの1人となった。
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