向島収容所とは? わかりやすく解説

向島収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/19 17:34 UTC 版)

旧向島捕虜収容所メモリアルプレート」の記事における「向島収容所」の解説

元々収容所として用いられ建物は、1918年帆布工場として建てられたもの。煉瓦造ノコギリ屋根特徴的な建物であった1923年大日本帝国海軍借り上げた。 1942年11月八幡俘虜収容所向島分所として開所東南アジア捕虜となったイギリス・アメリカ・カナダ兵が収容され、この地の北東ある日造船向島工場で、船の清掃荷役のほか溶接鍛冶などに使役された。この周辺では南の因島にも収容所置かれ同様に造船業使役されている。以下向収容所のことで判明している終戦までの概略を示す。 1942年11月 : 八幡俘虜収容所向島分所開所インドネシアからイギリス兵約100収容 1943年1月 : 福岡俘虜収容所向島分所改編 3月 : 福岡俘虜収容所11分所改称 7月 : 善通寺俘虜収容所第1分所として移管 12月 : 善通寺俘虜収容所第1派遣所に改称 1944年9月 : フィリピンからアメリカ兵116収容 1945年4月 : 広島俘虜収容所第1派遣所として移管 8月 : 広島俘虜収容所第4分所改称 8月15日 : 終戦 8月20日 : アメリカ兵10収容。この兵士たち広島市への原子爆弾投下により間接被爆している(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。 9月12日 : 解放。この時点での収容人数アメリカ116人・イギリス77人・カナダ1人1945年7月27日には日立造船向島工場空襲されることになるが、赤十字の印をつけていたことからこの周辺は全く被害はなかった。同年終戦後連合国側はその赤十字目標パラシュート付き救援物資入ったドラム缶いくつも落とし、そしておすそ分けの形で周辺民家にも落としたことから、空襲被害のなかった周辺民家屋根壊したという。アメリカ兵捕虜たちはこの救援物資用いて手製星条旗作り掲げている。終戦後日本国内における初の星条旗掲揚と言われている。同年9月13日この星条旗掲げて尾道港まで行進し帰国したこの間死者24人。内訳イギリス23人・アメリカ1人で、この人物の名前がプレート刻まれている。死因栄養失調よるものがほとんどで、うち15人は到着後2ヶ月以内死亡していることから東南アジアからの不衛生な航海死期早めた推定されている。劣悪な環境であった島民は彼らに親切に交流した記録いくつも残る。死亡した捕虜たちを弔い北側対岸である尾道共同墓地墓標建てられていたが、1947年頃に掘り出され現在は横浜英連邦戦死者墓地埋葬されている。

※この「向島収容所」の解説は、「旧向島捕虜収容所メモリアルプレート」の解説の一部です。
「向島収容所」を含む「旧向島捕虜収容所メモリアルプレート」の記事については、「旧向島捕虜収容所メモリアルプレート」の概要を参照ください。

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