「42−93953」号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 05:40 UTC 版)
「九州大学生体解剖事件」の記事における「「42−93953」号」の解説
残る9機は洋上に向けて遁走したが、鴛淵孝大尉率いる3個区隊12機が追撃。第2区隊(指揮:指宿成信少尉、甲飛2期)3番機の栗田徹一等飛行兵曹(丙飛15期)が20ミリ機銃で右エンジンを破壊。また、鴛淵大尉ほか数機が執拗な反復攻撃を行った。搭乗員も曳光弾で応戦していたが、被弾後は搭載物の落下に没頭して戦意を喪失。右側に「シティ・オブ・スプリングフィールド」号(機長:アリー・A・サッカー中尉)、左側に「シティ・オブ・オクラホマシティ」号(機長:フランク・レッド・クラッセン中尉)が挟んで掩護したが、機速の落下は止まらず、炎上し豊後水道に墜落した。 「42−93953」搭乗員※太字は生体解剖犠牲者 操縦士:ラルフ・E・ミラー中尉(1st Lt. Ralph E. Miller) 副操縦士:ウィリアム・F・フィンケルスタイン少尉(2nd Lt. Joseph F. Finkelstein) レーダー手:ジャック・M・ベリー少尉(2nd Lt. Jack M. Berry) 爆撃手:クライド・M・ルーシュ中尉(1st Lt. Clyde M. Roush) 航法士:チャールズ・C・ウィンダー少尉(2nd Lt. Charles C. Winder) 機関士:ウィリアム・H・チャップマン一等軍曹(T/Sgt. William H. Chapman) 通信手:ジャック・V・デングラー軍曹(Sgt. Jack V. Dengler) 中央銃手:アルバート・R・ハワード軍曹(Sgt. Albert R. Howard) 右銃手:クラーク・B・バセット・ジュニア伍長(Corp. Clark B. Bassett, Jr.) 左銃手:マーリン・R・カルヴィン一等兵(Pvt. Merlin R. Calvin) 尾部銃手:アーヴィング・A・コーリス伍長(Corp. Irving A. Corliss) 機長のミラー中尉以下6名死亡。5人が東臼杵郡北川村(現・北川町)と延岡市の境界付近の山林にパラシュート降下して捕虜。うちバセット伍長は、北川村大字長井上安山林に降下、北川小学校の裏山付近の木に引っかかったが、重傷を負っており、在郷軍人の手当てを受けたのち同日夜、憲兵隊へ連行された直後に死亡。延岡市山下町上ノ坊善正寺墓地に土葬された。1946年9月に両親とともに米軍が遺体を引き取った。 ベリー少尉、デングラー軍曹、カルヴィン一等兵、コーリス伍長の4名は、延岡警察署のグラウンドで目隠し姿で市民の前に晒された後、都農憲兵分隊を経て西部軍司令部に送致された。 生き残ったのは「42-65305」号7名、「42−93953」号4名の計11名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、ワトキンス機長のみが東京へ移送された。残り10名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は、裁判をせずに死刑とすることにした。このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、うち8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。 生体解剖に回されなかったカルヴィン一等兵、コーリス伍長の2名は福岡大空襲翌日の6月20日、前後に捕虜となったB-29搭乗員6名とともに福岡高等女学校校庭で斬首刑に処された(西部軍事件)。 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮および執刀は石山が行ったが、軍から監視要員が派遣されており、医学生として解剖の補助を行った東野利夫は実験対象者について「名古屋で無差別爆撃を繰り返し銃殺刑になる」との説明を受け、手術室の入り口には2名の歩哨が立っていたという。 戦後GHQがこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。なお、企画者の一人とされた石山は「手術は実験的な手術ではないのでその質問には答えられません、私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい」と生体解剖については否認し続け、独房で遺書を書き記し自殺した。 最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森に相談し、石山に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。 西部軍関係者佐藤吉直大佐 横山勇中将 九大関係者鳥巣太郎助教授 平尾健一助教授 森好良雄講師 その後、朝鮮戦争が勃発し、アメリカは対日感情に配慮したことから獄中自殺した1名を除き、恩赦によって減刑されその多くが釈放された。ただし、人肉食事件など自白の一部は強要によって捏造されたという見解もある(後述)。 自殺した石山の遺書には「一切は軍の命令なり、すべての責任は余にあり」としている。また九大医学部卒の外科医山内昌一郎は、「手術はすべて石山の専門分野に及んでおり、彼の業績に対する野心が明らかである」と指摘している。 犠牲となった搭乗員たちの乗っていたB-29が墜落した現場である大分県竹田市大字平田には、事件の33回忌にあたる1977年の5月5日、地元民らにより慰霊碑「殉空の碑」が建立された。慰霊碑には生体解剖犠牲者8名のほか、西部軍事件で処刑された3名の名がある。
※この「「42−93953」号」の解説は、「九州大学生体解剖事件」の解説の一部です。
「「42−93953」号」を含む「九州大学生体解剖事件」の記事については、「九州大学生体解剖事件」の概要を参照ください。
- 「42−93953」号のページへのリンク