「4人目のYMO」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 16:32 UTC 版)
「松武秀樹」の記事における「「4人目のYMO」として」の解説
1977年、矢野顕子のアルバム『いろはにこんぺいとう』制作前後から、後のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとの付き合いが始まる。1978年に坂本龍一のアルバム『千のナイフ』への参加をきっかけに、YMOの多くのアルバム・レコーディングや世界ツアーにマニピュレーターとして参加し「4人目のYMO」と呼ばれた。 1979年から1980年にかけてのYMOのワールドツアーでは、ソニー製のステレオカセットテープレコーダー「カセットデンスケ」をデータストア(記憶装置)として利用し、シーケンサーのローランド MC-8を介して、モーグ・III-CとE-MU・カスタムモジュールシンセサイザーを交互に駆使し、ライブ中に絶え間なく電子音を鳴らしていた。しかし当時の人手によるアナログな準備作業では装置のトラブルにも悩まされ、ニューヨークのボトムラインでのライブでは「デイ・トリッパー」の演奏時に電子音が出ず、ギターのリフを頼りに演奏を始めた。この様子は、当時YMOの公演を追っていた日本国内のFMラジオでも放送された。 1979年にEP盤で発売した「謎の無限音階」については、「耳の錯覚が起こせる」という制作意図をレコード会社に対し、分かりやすく説明するため、松武は「エッシャーの絵に曲が付けられる」と表現したという。細野晴臣がこの「謎の無限音階」のレコーディングを見ていたことが、後にYMOのアルバム『BGM』収録の「LOOM/来たるべきもの」を作曲するきっかけとなった。 1980年にテクノポップブームの中、劇場版『電子戦隊デンジマン』で劇中BGMでシンセサイザー演奏を担当した。また同年にThe Venturesのアルバム『CHAMELEON』にマニピュレーターとして参加したが、この作品にはYMOのメンバーも3曲提供しており、その縁での参加と思われる。
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