カーヴルト・ベグの時代とは? わかりやすく解説

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カーヴルト・ベグの時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 15:00 UTC 版)

ケルマーン・セルジューク朝」の記事における「カーヴルト・ベグの時代」の解説

ケルマーンセルジューク朝は、大セルジューク朝初代スルタントゥグリル・ベグ兄弟チャグリー・ベグの長男カーヴルト・ベグによって建設された。カーヴルトは、トゥグリル王朝創建の地ホラーサーン地方イラン北東部)から西進しイラク入っていった時代に、配下の軍を率いてホラーサーンから南のケルマーンへの侵攻担当し1051年までにケルマーン全域支配下置いた。カーヴルトはこの地方勢力扶植し、さらに西のファールス地方にも進出するとともにペルシア湾要衝ホルムズ海峡抑え対岸オマーンまで窺った。 1063年伯父スルタントゥグリル・ベグが死ぬと、カーヴルトは息子を残さなかったスルタン後継者になることを望んだが、結局ペルシア人官僚支持受けた弟のアルプ・アルスラーン大セルジューク朝第2代スルタン即位した。これに対してカーヴルトは反抗構え見せて自らケルマーンスルタン称し、やがて公然とスルタンに対して反乱起こしたケルマーン・セルジューク朝スルタンとその宰相ニザームルムルク攻撃受けて苦し戦い強いられたが、アルプ・アルスラーン軍中にもカーヴルトに心を寄せる者も多く、ついにスルタンケルマーンへの侵攻断念させるに至った1072年アルプ・アルスラーンが死ぬと、その長男マリク・シャー即位宣言したため、カーヴルトは再びスルタン位を狙って兵を起こしたが、翌1073年敗れて捕らえられ殺害された。カーヴルトの死後ケルマーンにはケルマーン・シャースルターン・シャーフサインらカーヴルトの諸子残されており、大セルジューク朝は彼らまでも討滅することはなかった。以後ケルマーン・セルジューク朝支配者は単にアミール総督)を称する留まり大セルジューク朝スルタン権威のもと分枝地方政権として存続することとなった

※この「カーヴルト・ベグの時代」の解説は、「ケルマーン・セルジューク朝」の解説の一部です。
「カーヴルト・ベグの時代」を含む「ケルマーン・セルジューク朝」の記事については、「ケルマーン・セルジューク朝」の概要を参照ください。

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