統治と宗教政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:00 UTC 版)
マリク・シャーはニザームルムルクの補佐もあって、無難に統治を行なった。ニザームの補佐のもと、中央集権化による官僚制を確立し、対外的には勢力拡大に奔走し、東はアフガニスタンから西は東ローマ帝国に及ぶ一大支配圏を築き上げた。また、1074年にバグダードに天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに新暦を編纂させるなど、文化的にも大いに優れていた。宗教政策ではスンナ派を重用してイスマーイール派を弾圧したが失敗。彼の時代に王朝は全盛期を迎えたが、この宗教政策の失敗が王朝衰退の一因ともなった。 ヒジュラ暦485年ラマダーン月10日土曜日(1092年10月20日)、名宰相であったニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺された。マリク・シャーはその死を知って悲しんだが、同年に無理を押して出陣を強行し、バグダードに滞在中の翌シャウワール月(10月21日 - 11月9日)に、陣中で病に倒れてニザームの後を追うように37歳で急死した。ニザームルムルク殺害から一ヶ月も経たぬうちにマリク・シャーも病没したと伝えられている。治世は20年であった。 マリク・シャーは、ニザームを重用し、セルジューク朝の全盛期を築き上げた名君として高く評価されている。
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