マフムード1世 (セルジューク朝)とは? わかりやすく解説

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マフムード1世 (セルジューク朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 14:35 UTC 版)

マフムード1世
محمود اول سلجوقی
セルジューク朝スルターン
在位 1092年 - 1094年
出生 1086年9月9日?
死去 1094年11月
王家 セルジューク家
王朝 セルジューク朝
父親 マリク・シャー
母親 テルケン・ハトゥン
宗教 イスラム教スンナ派
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ナースィルッディーン・マフムード1世(Nasir ad-Din Mahmud I、1086年9月9日?[1] - 1094年11月[2])は、セルジューク朝の君主(スルターン)である(在位:1092年 - 1094年[3]。マフムード1世は父親のマリク・シャーのスルターンの地位を継承したが、セルジューク国家全体の支配権を得ることはできなかった。

生涯

マリク・シャーの生前、宰相のニザームルムルクはマリク・シャーの長子であるバルキヤールクを後継者とするよう主張していたが、1092年にマリク・シャーが没した後、テルケン・ハトゥンはアッバース朝カリフ・ムクタディーに実子であるマフムード1世のスルターン位継承を承認するよう説得した[1]。他方バルキヤールクもスルターンを称し、セルジューク朝には2人のスルターンが並立する[2]。1094年11月、マフムード1世は天然痘に罹って没した[2]

マリク・シャーの死後、大セルジューク朝から分離独立した政権が現れ[4]アナトリアではイスファハーンから脱出したクルチ・アルスラーン1世が、シリアではマフムードの叔父トゥトゥシュが独立し、アレッポディヤルバクルの支配者も独立を宣言した。セルジューク帝国内の分裂は、1096年に実施された第1回十字軍の予想外の成功をもたらした[5]

脚注

  1. ^ a b WEST ASIA & north africa (2)(2017年5月閲覧)
  2. ^ a b c 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』
  3. ^ International encyclopaedia of Islamic dynasties, Ed. Nagendra Kr Singh, (Anmol Publication PVT Ltd., 2005), 1076.
  4. ^ Asbridge, Thomas S., The Crusades: The Authoritative History of the War for the Holy Land, (Harper Collins, 2010), 22.
  5. ^ Asbridge, Thomas S., The First Crusade: A New History, (Oxford University Press, 2004), 334.

参考文献

  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編、新版世界各国史、山川出版社、2002年8月)
先代:
マリク・シャー
大セルジューク朝君主
1092年 - 1094年
次代:
バルキヤールク



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