大セルジューク朝の分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 02:14 UTC 版)
「大セルジューク朝」の記事における「大セルジューク朝の分割」の解説
「ルーム・セルジューク朝」および「アタベク」も参照 マリク・シャーが1092年に死去すると、大セルジューク朝は兄弟と4人の息子が大セルジューク朝の配分を巡って不和になり分裂した。マリク・シャーの地位はアナトリア半島ではルーム・セルジューク朝を建国したクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュが継承した。ペルシャでは統治が3人の兄弟イラクのバルキヤールクやバグダードのムハンマド1世、ホラサン(英語版)のアフマド・サンジャルから異議を申し立てられた息子のマフムード1世が継承した。トゥトゥシュが死ぬと、息子のリドワーンとドゥカークがそれぞれアレッポとダマスカスを相続し、同様に互いに争い、更に互いに反目し合いながらシリアを首長に分配した。 1118年、三男のアフマド・サンジャルが大セルジューク朝を掌握した。彼の甥でありムハンマド1世の息子にあたるマフムード2世はアフマドの王位の主張を承認せず、自らがスルタンであると宣言し、最終的に公式にアフマド・サンジャルに退位させられる1131年までバグダードに首都を構えた。 名目だけのセルジューク領は他に東北シリアと北メソポタミアのアルトゥク朝があり、1098年までエルサレムを支配した。ダニシュメンド朝が東アナトリア半島と北シリアに建国し、ルーム・セルジューク朝と領土を争い、ケルボガはモースルのアタベクとして独立した。
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