大セルジューク朝の混乱と終焉とは? わかりやすく解説

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大セルジューク朝の混乱と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:40 UTC 版)

セルジューク朝」の記事における「大セルジューク朝の混乱と終焉」の解説

1092年宰相ニザームルムルクマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺され、さらに同年翌月マリク・シャー38歳で死ぬと、カラハン朝王女テルケン・ハトゥンを母にもつ4歳マフムード支援する勢力と、12歳長男バルキヤールク(ベルクヤルク)を支援するニザームルムルク遺臣勢力の間で後継者争い内紛起こり大セルジューク朝2人スルタン並存した。1094年マフムード夭折するバルキヤールク単独スルタンとなるが、まだ年若いために叔父にあたるマリク・シャー弟たちとの間でも後継者の座を巡って争い続き1099年十字軍シリア到来してエルサレム奪ったときも十分な対応をとることができない状態であった。 さらに、バルキヤールク異母弟ムハンマド・タパルらがバルキヤールクとの間でスルタン位を巡る争い起こすと、大セルジューク朝支配領域バルキヤールクムハンマドの間で分割されることになったこの内紛は、バルキヤールク1104年その子マリク・シャー2世1105年若くして没したために、ムハンマド・タパルスルタン継承をもって終結するが、もはやスルタン権威大きく失墜していた。 1119年至り、かつてバルキヤールクによってホラーサーン派遣されイラン西部から中央アジアにかけて勢力確立していたムハンマド・タパル同母サンジャルが、前年亡くなったムハンマド・タパルの子マフムード破り、甥にかわってムハンマド・タパル後継者としての地位確立した。これをきっかけサンジャルはイラン・イラクを支配するムハンマドの子孫たちイラク・セルジューク朝1118年 - 1194年に対しても大スルタンとして宗主権行使するようになり、1123年には断絶したシリアセルジューク朝支配地域取り戻して大セルジューク朝復興させた。 サンジャルガズナ朝の都ガズナ征服しガズナ朝支配下置いた1121年には現在のアフガニスタン勃興したゴール朝服属させ、1130年にはカラハン朝宗主権下に置き、支配下ありながらサンジャル反抗したホラズム・シャー朝アトスズ攻撃して屈服させた。こうしてサンジャル大セルジューク朝権威東方へと拡大することに成功したが、1141年東方から襲来してカラハン朝侵食した耶律大石率いキタイ人の西遼軍を撃退しようと出撃してカトワーンの戦い敗れた。 この敗戦キタイ人に追われ中央アジアから新たにホラーサーン逃れてきたトゥルクマーン増加サンジャル地盤であったホラーサーンを脅かすようになった1153年トゥルクマーン反乱鎮圧しようとしたサンジャル逆に捕虜となって3年間を虜囚として過ごすこととなり、その権威は完全に失墜した1157年サンジャル病没によってセルジューク朝全体権威を及ぼす大スルタン消滅し大セルジューク朝事実上滅亡した

※この「大セルジューク朝の混乱と終焉」の解説は、「セルジューク朝」の解説の一部です。
「大セルジューク朝の混乱と終焉」を含む「セルジューク朝」の記事については、「セルジューク朝」の概要を参照ください。

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