遊牧民の侵攻とグルジアの衰退とは? わかりやすく解説

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遊牧民の侵攻とグルジアの衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 01:18 UTC 版)

グルジア王国」の記事における「遊牧民の侵攻とグルジアの衰退」の解説

詳細は「モンゴルのグルジア侵攻」を参照 モンゴルのルーシ侵攻と同じ頃、モンゴル軍一部南下してグルジア侵攻したタマル女王の子ギオルギ4世すぐさま第5回十字軍支援取りやめ、国を挙げて抵抗はじめた。しかし、グルジアモンゴルの軍事力には対抗できず、ギオルギ4世緒戦重傷負い1222年31歳亡くなった。 ギオルギ4世の妹ルスダン王位継承したが、彼女に国政経験がなく、国自体遊牧民追い出すには弱すぎた。1236年チョルマカン率いモンゴル軍が再びグルジア侵攻すると、ルスダングルジア西部へ避難余儀なくされた。東部抵抗続け貴族は完全に消滅させられ残り貴族モンゴル臣従貢税支払ったモンゴル軍スラミ山脈越えなかったためグルジア西部被害少なくルスダン危機脱したその後ルスダンローマ教皇グレゴリウス9世支援求めた失敗し1243年モンゴル臣従した。 しかし、モンゴルグルジア支配磐石ではなく、反モンゴル蜂起相次いだ1259年ダヴィド6世が起こした蜂起30年後デメトレ2世英語版)が処刑されるまで続きその後ダヴィド8世闘争続けた抗争続いている間にイルハン朝衰退し、ギオルギ5世治世結実した。ギオルギ5世イルハン朝への貢税支払い止めモンゴル侵攻以前領土回復東ローマ帝国ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国との貿易発展させ、さらにトレビゾンド帝国への影響力を再び強めた。ギオルギ5世また、エルサレムにあるいくつかの教会グルジア正教会返還させ、グルジア人巡礼者聖地への通行権認めさせた。中世グルジア広く使われているエルサレム十字はギオルギ5世時代考案されたものであり、それが現代グルジアの国旗にも使われた。

※この「遊牧民の侵攻とグルジアの衰退」の解説は、「グルジア王国」の解説の一部です。
「遊牧民の侵攻とグルジアの衰退」を含む「グルジア王国」の記事については、「グルジア王国」の概要を参照ください。

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