遊牧民の侵攻とグルジアの衰退
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「グルジア王国」の記事における「遊牧民の侵攻とグルジアの衰退」の解説
詳細は「モンゴルのグルジア侵攻」を参照 モンゴルのルーシ侵攻と同じ頃、モンゴル軍の一部は南下してグルジアに侵攻した。タマル女王の子ギオルギ4世はすぐさま第5回十字軍支援を取りやめ、国を挙げての抵抗をはじめた。しかし、グルジアはモンゴルの軍事力には対抗できず、ギオルギ4世は緒戦で重傷を負い、1222年に31歳で亡くなった。 ギオルギ4世の妹ルスダンが王位を継承したが、彼女には国政の経験がなく、国自体も遊牧民を追い出すには弱すぎた。1236年、チョルマカン率いるモンゴル軍が再びグルジアに侵攻すると、ルスダンはグルジア西部への避難を余儀なくされた。東部で抵抗を続ける貴族は完全に消滅させられ、残りの貴族はモンゴルに臣従し貢税を支払った。モンゴル軍はスラミ山脈を越えなかったためグルジア西部の被害は少なく、ルスダンは危機を脱した。その後、ルスダンはローマ教皇グレゴリウス9世に支援を求めたが失敗し、1243年にモンゴルに臣従した。 しかし、モンゴルのグルジア支配は磐石ではなく、反モンゴル蜂起が相次いだ。1259年にダヴィド6世が起こした蜂起は30年後デメトレ2世(英語版)が処刑されるまで続き、その後もダヴィド8世が闘争を続けた。抗争が続いている間にイルハン朝が衰退し、ギオルギ5世の治世に結実した。ギオルギ5世はイルハン朝への貢税支払いを止め、モンゴル侵攻以前の領土を回復、東ローマ帝国やヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国との貿易を発展させ、さらにトレビゾンド帝国への影響力を再び強めた。ギオルギ5世はまた、エルサレムにあるいくつかの教会をグルジア正教会に返還させ、グルジア人巡礼者の聖地への通行権を認めさせた。中世グルジアで広く使われているエルサレム十字はギオルギ5世時代に考案されたものであり、それが現代のグルジアの国旗にも使われた。
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